「恵味な日々」を続ける理由
この恵味な日々をいつも見てくださっている方から、この時期になぜ食事を出すのか、教えてほしい、どうしてかというような疑問が寄せられました。
他にも、同じような感想をお持ちの方もおられるのではないかと思い、私の考えを書かせていただきます。
このたびの大震災が起きて、正直なところ私もいつものような、朝食やお弁当の写真を出すのは止めようかと、考えました。
けれどもそもそも、このブログは、日々の食事やお弁当を紹介するために始めました。
その理由は、当たり前に毎日食事がいただけることを、当然と思って特に感謝をすることを忘れてしまいがちな日々を、少し客観的に見ることで、ありがたさを皆で共有できればというのがありました。
また、多忙な日々の中でも時間をやりくりして、なるべく手作りをし、地産地消を心がけ、ノーミートで食事を作ることも、皆さんと確認することができればと思ったからです。
ですから、それを止めてしまうとそもそもブログをしている意味がないので、最初の趣旨を通しました。 けれども当初は、いつものように献立を書くのは止めました。
私自身、被災者の方々が、「今日の食事はビスケットだけです」などと聞くと、何とか食事を届けてあげられないものかと、無理を承知でそんなことを思いました。
私たちは今、身近な人々が、大変困難な状況にあるので、自分のことのように感じ、痛みを共有しています。
そんな中で、私としてはそれでも当たり前の日常を過ごしていることを、発表することを選択しました。
そして、被災地から離れているものとして、何ができるかを考えて自分のできることをささやかでもしてきたつもりです。
また、人が食事が困難だから、食事の写真を出すなと言われたら、そもそも私のブログは、ありえないのです。
なぜなら、いま世界では何億という人が飢えに苦しみ、まともな食事ができなくて死んでいます。
それが、私たちの生きている世界の現実です。
けれども、それは自分の知らない、遠くの人だから、その痛みが同じ国の同朋のようには、感じられません。 また、今回のような地震や津波、台風などの風水害で、毎年世界中の特に貧しい国々で何万、何百万という人が亡くなっています。
それらは、自然災害だけではなくて、温暖化の影響を受けていたり、先進国の人々の肉食が、飢えや災害の死者に繋がっています。
そのような現実を知り、先進国の人間が欲望を制御するためには、当たり前の日常に感謝し、その大いなる恵みに気付くことが大切だと私は思っています。
そして大切なことは、今回の大震災から学んで、どのように 生きればいいかを真剣に考え、自分だけではなく人びとにも訴えていかなくてはならないと思っています。
終戦後、焦土と化した焼け跡から、奇跡の復興を遂げた日本でしたが、それはあまりにも物資的繁栄に偏っていなかったか? また、自然を破壊し、貴重な動植物を絶滅の危機に追いやり、未来の人類に負の遺産を残すことがわかっていながら、原子力発電所を作ってきた私たちだったのです。
自分の生活の足元から、人から奪わない生活を心がけていかなくてはなりません。
どういう社会を、日本を作っていくのかを明らかにして、その上で当たり前の日常を感謝して生きることが大切だと、私は思っています。
多磨墓地にお墓参りに行きました。
枝垂れ桜は満開でした。
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