« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月

2011年4月25日 (月)

自然界の変化

P4250001   春たけなわの東京です。
 そんな中、今日のお昼すぎには、空が暗くなり突然雨が落ちてきました。
 冷たい風も吹いてきて、寒くなりました。
 午前中に英語の教室の行き、午後は本部で、色々打ち合わせの予定が入っていました。
 渋谷から原宿まで直行する予定でしたが、寒さに震えたので、自宅によってマフラーを取り、本部に行きました。
 ところが、空はすぐに青空になり冷たい風も止みました。
 春のお天気は変わりやすく、寒暖の差も激しいですから、スP4250005 カーフなどをいつもバッグに入れておくことが賢明だと学びました。
 本部の通用口の横に白いハナミズキの木があります。
 その花が、今両手を合わせて合掌しているような姿です。
 「この木、ハナミズキだと思っていたけど、近種だったのかしら」と一人思いました。
 夜、夫に聞いたら、「ハナミズキの蕾はああいう姿なんだよ。今は外苑もどこも、あの蕾だよ」と教えてくれました。
 色々なところで、ハナミズキの花を見てきているはずですP4250011 が、身近にはなかったせいか、蕾の形に気が付きませんでした。
 帰り道では、東郷神社の脇に、紫モクレンが咲いていました。
 以前は我が家にも紫モクレンがありましたが、もう7~8年くらい前に枯れてしまいました。
 日陰になると、植物は突然枯れることがあるようです。
 そのあとには、日陰に強いビワの木が大きくなっています。
 タケノコが出るころには、山椒も決まって新芽を出していましたが、今年は一向に出ません。
P4250004  寒さで遅いのかと思いましたが、枯れていました。
 松とモミジが大きくなって、すっかり日陰になっているからかもしれません。
 自然界も常に変化しています。

| | コメント (11)

2011年4月23日 (土)

長崎へ

P4230005  輝子先生の23年祭で長崎に来ています。
 

 東京は時折激しい雨の降るお天気でしたが、長崎は快晴です。
 

 空も海も、新緑も輝いています。
 

P4230037  風は冷たくて、東京より少し寒いくらいです。
 

 公邸のお庭は、藤や八重桜、つつじ、花桃など花盛りです。
 

 雅春先生が好まれた柿の若葉も、青空に向かって勢いよく伸びています。
P4230022

P4230028   

| | コメント (3)

2011年4月21日 (木)

ミツバチの羽音と地球の回転

P4200002   「ミツバチの羽音と地球の回転」という映画を見ました。
 この映画のことは、以前から知っていて見たいと思っていましたが、機会を逃してしまいました。
 一昨日の朝日新聞の夕刊で、この映画が渋谷のユーロスペースで上映されているという記事を見つけ、出かけました。
 内容は、中国電力が山口県上関(かみのせき)町に建設しようとしている上関原発と、原発予定地の沖に浮かぶ祝島(いわいしま)の島民たちの建設反対運動を伝えるドキュメンタリー映画です。
 島は原発反対派と推進派の二派に分かれ、島民の9割はP4200005 反対派ですが、町や県は多数派が多く、知事は推進の許可を出します。
 けれども、島民は実力行使、座り込みをしてそれを阻止しようとします。
 反対運動は25年もの長い間続いていますが、大きな力を及ぼしているのは、70代80代のおばちゃん達です。
 高齢化が進んでいる島で、島に戻ってきて、島の農業、漁業で何とか自立したいと奮闘している30代の青年が父親の跡を継いで、運動に関わっています。
P4210010   12時半の会を見るため、早めの11時45分頃映画館につきました。
 入場券の発売が12時からだったので、来た人は並んでいました。
 並んでいる人は、100人くらいいたと思います。

 混雑は予想していましたが、人が多くて驚きました。
 人々の原発に対する関心の深さが窺えます。
 島の人たちが、自分達の生活の場を守るために、中国電力や、行政側を相手に原発建設を阻止しようする場面は、何度も涙が出ました。
 明るくて働き者で、元気な人たちですが、その人たちの真っ当な声を、電力会社や行政側が聞く耳を持たない悔しさや無念、そしてがんばれとエールを送る気持ちが重なって、涙になりました。
 この映画のよくできているところは、ただ反対するだけではなく、原発に頼らないでどのような社会ができるかということを、スウェーデンを例にして紹介しているところです。
 沢山の人が立ち見していました。
 映画の後で、監督の鎌仲ひとみさんと「原発に頼らない社会へ」の著者で環境活動家の田中優さんのトークショーがありました。
 日本の電力会社が独占企業であり、政府、業界と密接な関係にあること。
 電力の一極集中ではなく、分散型にして、自然エネルギーを扱う企業を育てることにより、雇用が創出できること。
P4210012  日本が一年間に、石油や天然ガス、ウランなどのエネルギー資源の輸入に24兆円を使っている、そのお金を自然エネルギーに投資すれば、持続可能な社会が構築できる。
 そんな有意義な内容で、気さくでわかりやすいトークショーでした。
 26日まで、ユーロスペースで上映していますが、その後各地で、自主上映なども含めて上映されると思います。
 可能な方は、是非見ることをお奨めします。
 映画のプログラムに、監督のサインをもらっちゃいました。

| | コメント (7)

2011年4月19日 (火)

春の勢い

P4180001   春の植物の勢いは、目を見張るものがあります。
 一日、一日変化します。
 つい先日まで、裸木だったのが、いつの間にか緑の葉っぱに覆われています。
 今朝は早朝激しい雨が降りました。
 地面はからからに乾いていたので、恵みの雨でした。
 八時過ぎには雨は止みました。
 曇りがちの少し寒い日になりました。
 会議があったので本部に行き、午後二時過ぎに帰ってきました。
P4190014  隣のビルのお掃除の女性と挨拶を交わしましたが、「今日は20度になると言っていたのに」と彼女は言いました。
 「寒いですね」と答えました。
 家の門をくぐると、ケヤキや楠、モミジの花などが今朝の雨で落ちて、地面を黄色くしていました。
 ささやかなお花畑も、チューリップ、パンジーなどが咲いています。
P4180007  チューリップは、今年は新しい球根を買わず、去年の春咲いたのを掘り出して乾燥させ、秋に植えたので、少し小ぶりです。
 それでも春の賑わいはうれしいです。

| | コメント (4)

2011年4月17日 (日)

秋田に行ってきました

P4170004   秋田教区の講習会で、秋田市に行ってきました。
 昨日の東京は、最高気温26℃とかいっていたので、東北秋田も少しは寒いとは思っていましたが、コートなしで出かけました。
 ところが空港に着いてみると、雨のどんよりした天気で、真冬の寒さがここにはありました。
 10℃に満たなかったのではないかと思います。
 そんな中で、空港から秋田市内に向かう道の道路脇には、少し伸びたふきのとうが沢山見られました。
 講習会の今日は、朝から晴れて良いお天気になり、気温も12~13℃位になったのではないかと思います。
P4170012  当初は桜の開花予想日が、4月17日の今日だったそうですが、予想外の寒さが続いて、桜の蕾はまだ堅いようでした。
 それでも青空の下、講習会が開催され、ありがたいことでした。
 控え室には、春らしい黄色を基調にしたお花を飾っていただきました。
 講習会終了後、空港に向かう車の中から見える遠くの山には、雪が残っていました。

 春の待ち遠しい秋田でした。
 今回も秋田教区の皆さまにはお世話になりました。
 ありがとうございました。

| | コメント (1)

2011年4月14日 (木)

被災地訪問2

P4140043   宿舎を10時頃出発して、今日は仙台市から福島県の相馬市まで、海岸沿いの6号線を南下して、東京に帰りました。
 仙台から、東北自動車道に乗れば近いのですが、海岸沿いの被災地の様子を見たかったからです。
 昨日は仙台市周辺だけでしたが、仙台市の若林区から、名取市、岩沼市、亘理市、山元町、新地町、相馬市までずっと海岸線を左に見て、車を進めました。
 どこまでも途切れることなく津波の跡があり、被害の広大なことを目の当たりにしました。
 一か月経っていますが、緊急に必要な道路などは撤去作業P4140049 が少しはされているのでしょうが、ほとんどのところは手つかずのままのようでした。
 車が流されたまま、広い田畑の中に点々とあり、ビニールハウスは骨組みが曲がりビニールが絡まっている残骸が、見られました。
 青森から千葉までの海岸沿いがずっと津波の被害にあっていることを、現実を目の前にして、今更ながら実感しました。
 相馬市から南は避難地域に入っているところもあるので、そこから内陸部の113号線を経由して349号線を福島に向かいました。
 この道は海辺から、阿武隈川に沿って山の中を行きます。
P4140053  それまでの景色が、灰色や茶色で、緑はあっても残骸の圧倒的な存在感に押されて消えていたので、この道路に入って、なんだかほっとしました。
 被災地の皆さんが、心に安らぎや明るさが欲しいと言われるのが、わかるような気がしました。
 目の前に、津波の生々しい爪痕を否が応でも目にしなくてはならない現実があります。
 その景色からは、沢山の思いが次々に出てきます。
 悲しい思い出もあるでしょうし、もとの姿に戻るまでの長い時間と、労力も思われます。
 現実から目を背けるわけではありませんが、現実をしっかりP4140061 と受け止めながらも、自然の美しさや、人々のやさしい気持ちが、疲れた心を癒してくれるのだと、わかりました。
 目に染みる新緑、梅、桜、桃、レンギョウ、辛夷、木蓮、水仙などが咲いていて、鯉のぼりが上がっているところもありました。
 屋根にビニールシートがかかっている家も目立ちましたが、それでも当たり前に営まれている日常を、ありがたく思いました。
 行きの東北自動車道はスムーズでしたが、帰りは各所で補P4140065 修工事があり、一車線規制で、渋滞がありました。 被災地への下りを真っ先に、通れるようにしたのだと思います。
 結局東京へは、夕方7時過ぎに帰ってきました。
 途中昼食の時間なども入れて、9時間近くかかったことになります。
 夫と二人で交代して運転したこともあり、そんなに長く感じませんでした。
 駆け足だったので、東北の他の県には行くことができませんでしたが、震災の実態を知ることができ、宮城県教化部を訪れることもできて、意義のある被災地訪問となりました。

| | コメント (2)

2011年4月13日 (水)

被災地訪問

P4130001   被災地を訪問しました。
 今回の大震災の現場を実際に見たいと思っていました。
 先週、本部からの支援物資、お米、野菜、お水、生活用品、自転車などを持って、トラックで本部職員数人が被災地の東北各県を回りました。
 その職員から、道はガタガタしているけれど東北自動車道で行くことができると聞きました。
 二日間しか時間が取れないので、宮城に行くことにしました。
 朝6時半に家を出て、まずは車を満タンにしました。
 7時に外苑から首都高速に乗り、一路東北道を目指しました。
 9時前、上河内パーキングエリアでトイレ休憩して、そこからは私が運転しました。
 11時ころには、宮城県の白石インターに到着し、高速道路を下りました。
 ここまでは、震災復旧のためのトラックや自衛隊の車が多いのと、道路の補修の跡があり少しバウンドするくらいで、地震の痕跡はあまり感じられませんでした。
P4130009  夫と運転を交代し、一般道の4号線を海寄りの岩沼方面に向かいました。
 震災復旧のための車が、目立ちます。
 この辺りは特に変化はなく、家の屋根にブルーシートなどが一部かけてあるところが、ところどころありました。
 郊外型の店が並んでいる地域に入りましたが、どこも通常営業していました。
 レストランも営業していて、お昼が近かったので、人が入っていました。
 本部の人の話では、仙台に泊まった時は、素泊まりで食事はできなかったと聞いたので、朝おむすびを9個作ってきました。
 朝食、昼食の分です。
 数日で、だいぶ復旧が進んだようでした。
 途中小さな個人スーパーがあったので、品物はどれくらいあるのか知りたくて、入ってみました。
P4130013   60代の女性が一人店番していました。
 ほとんど何でも揃っていました。
 飲むヨーグルトと、ポンカン、白石名産の温麺の小さいパックを買いました。
 ポンカンは夜宿舎で食べましたが、少し古かったです。
 一時間くらい走って、仙台空港の近くまできました。津波の跡が見えてきました。
 津波で流された車を集めて積み上げてある場所が、いくつもあります。
 この辺りまで来たら、交差点にお巡りさんが立っていて、交通整理していました。
P4130015  電気が復旧していないようです。
 がれきの山や、形だけ残って中は何もない家などが見えてきました。
 仙台空港は、今日から一般の運行が再開したそうで、取材の記者がカメラを構えていたりしました。
 空港の建物は、外見は何ともないように見えました。
 周りの施設はがたがたで、レンタカー会社の支店は骨組みだけが歪んで残っていて、そこに流されてきた木やがらくたがからまっていました。
 空港から海までは、100メートル足らずのようでしたが、そのあたりの光景はすさまじいものでした。
 がれきの山の中にところどころ家が残っています。
 立派な外観をしていますが、窓ガラスはなく中は空っぽで、カーテンが風にはためいている様は、異次元空間のように感じられました。
P4130021  突然そんな中から、人が10人くらい出てきました。
 午後1時くらいになっていました。
 自衛隊の人でした。
 がれきの中なので、自衛隊の車も見わけがつきませんでした。
 昼食の時間が終わって、午後からの作業に入るようでした。
 膨大ながれきの山を片づけていくのだと思うと、気が遠くなりそうです。
 それでも自衛隊の人たちは、ひとつひとつ片づけていってくれるのです。
 ご苦労を思わずにはいられませんでした。
 異様なにおいと、風が強かったので埃が舞い、マスクを着けていなかった私たちは、長くはいられませんでした。
 私はすぐ車に戻りましたが、夫は少し見て回っていました。
 道路一つ隔てて、天国と地獄があるというような光景に、言葉もありませんでした。
 仙台市に入りました。
 1時半くらいになっていました。
 住宅街のわきに車を止めて、お昼をいただきました。
 朝作ったおむすびです。
 その後、宮城県の教化部に行きました。
 事前に連絡をしていなかったので、驚かれるとは思いましたが、皆さんそれぞれにお忙しいと思ったので、突然訪問しました。
 教化部の職員など、数名の方がいました。
 「こんにちは」と普通に挨拶を交わしましたが、次の瞬間びっくりされました。
 教化部長さんや五者の方は、気仙沼や石巻に支援に行っておられました。
 教化部の中を見せていただきました。
 何ともないように見えますが、壁に小さな亀裂が入っていたり、大道場の天井のつなぎ目が少しはがれていたりしました。
 聖経を上げさせていただきたいとお願いして、大道場の実相軸の前で、聖経読誦をしました。
 皆さんも一緒にしてくださいました。
 今回の震災で亡くなられた方々の御霊のやすらぎと、被災者の皆さんの一日も早い生活の回復、震災の復興を祈念しました。
 そのあとお茶をいただいて、震災後の様子などをお聞きしました。
 仙台市が電気、ガス、水道などが復旧し、ガソリンも普通に給油できるようになったのは、ここ一週間くらいのことだそうです。
 それまでは、ガスがあっても水がなかったり、水はあってもガスがなかったりで、ガソリンがないのは本当に大変だったそうです。
 そんな中、自転車は重宝したしたそうです。
 本部からも要請に答えて、自転車を30台くらい持っていきました。
 三月に届くはずの普及誌もまだ届いていないところがあるようです。
P4130025  全国の教区から支援物資も沢山届いていました。
 お米は900キロくらい届いたそうです。
 生長の家関係者だけでなく、近所の人や避難所にも分けるといっておられました。
 岡山教区白鳩会からは、支援物資とともに、寄せ書きも送られていました。
 教化部のどの部屋も支援物資で埋まっていました。
 「これから、これらをどのように分けるか」と、うれしい悲鳴を上げていました。
 最後に皆さんと記念写真を撮り、握手をして、宿舎に向かいました。
 宿舎は、仙台市内のホテルはすべて満室でとれませんでした。
 秋保温泉が市内の宿泊施設の一覧の中にありましたが、昨日の夜だったのでもう予約が取れませんでした。
 最悪の場合は、車で寝ることも覚悟していましたが、今朝9時に電話して、秋保温泉の部屋が確保できました。
P4130024  仙台市の中心から、20~30分くらいで行けるところです。
 部分営業で、食事も通常のものは出せませんと言われました。
 料金も半額くらいでした。
 着いてみると、立派なホテルで館内は薄暗かったですが上等でした。
 4時くらいに到着しましたが、朝早くからずっと活動していたので、少し疲れました。
 久しぶりに大浴場や露天風呂に入り、疲れを取ることができました。
 お風呂は人が一人、途中で二人入ってきました。
 夕食は大広間でしたが、充分ごちそうでした。
 震災の復旧支援の人も沢山泊まっているようでした。
 ロビーには、その人たちのためにバナナが用意されてありました。
 これからまだまだ大変ですが、それでも人の力は大きくて、復興に向けて力強く進んでいることを実感しました。

| | コメント (8)

2011年4月12日 (火)

原稿出しました

P4100006   原稿があったので、ブログ書けませんでした。
 

 先ほど、ようやく編集者の方に送りました。
 

 選挙があったり、余震が続いて、いろいろあります。
 

 選挙の日は、朝食の後すぐに出かけました。
P4100012  

 表参道ヒルズの裏手にある、神宮前小学校が会場でした。
 

 行ったときには、私たちしか投票する人はいませんでした。
 

 小学校の校庭の桜は、満開でした。
 

P4100014  帰り道、歩道橋から見た朝の表参道は、昼間の賑わいが嘘のように、ひっそりして、清々しかったです。
 

 庭のヤマブキが満開で、シャガも咲きだしました。

P4100025 P4100023

| | コメント (2)

2011年4月 7日 (木)

三陸地方の地震

P4060001_3   「地震の日本史」について書きましたが、読んでみて、古代から数限りない地震とともに私たちの祖先は生きてきたことを知りました。
 そして、その時々の大きな地震は、人々の暮らしや社会の制度にも大きな影響を与えてきたことがわかります。
 この本は縄文時代から始まりますが、縄文時代の地震については、古墳の発掘調査などで断層から地震の痕跡を知ることができます。
 飛鳥、平安、室町、安土桃山、江戸、近・現代と続きます。
 明治以降の地震では、今回の三陸地方では過去に二回、大きな地震が起きています。
 「明治29(1896)年、6月15日午後7時32分、東北地方の三陸沿岸から約200キロ沖合の太平洋海底でM8・5前後の巨大地震が発生した。旧暦5月5日の端午の節句、陸上では震度2~3の揺れが長く続いた。気にとめるほどの揺れではなかったが、35分くらい経って、三陸海岸に大きな津波が押し寄せた。満潮と重なる不運もあって、岩手県の沿岸を中心に1万戸近い家屋が流れ去り、死者総数が約2万2千人の大惨事(明治三陸地震津波)となった。佐竹健治は、東北日本の北側に沿って海底に延びる太平洋プレートと北米プレートの境界が、250キロの長さで、ゆっくりと上下に5~6メートルずれ動いた津波地震と解析した。」
P4030016  この時期は、どういう時代だったかと言いますと、明治27年に日清戦争の火蓋が切られ、28年4月に日清講和条約が結ばれ、ロシア・ドイツ・フランスの三国が遼東半島の返還を要求しています。いわゆる三国干渉です。
 もう一つの大きな地震は、昭和8年に起きています。
 「昭和8(1933)年、3月3日は桃の節句だった。午前2時31分に東北地方の三陸沿岸の人たちが地震を感じた。建物の壁に亀裂が生じて崖が少し崩れ、石垣や堤防の一部が決壊する程度だったが、約30分後に津波が襲いかかり、死者・不明者の総数が3064人という大惨事になった。岩手県沿岸の波高は20メートル前後、大船渡市の綾里湾で最大波高28・7メートルに達した。人口1798人・戸数362軒の岩手県田老村田老(現・宮古市)では358軒の家屋と763人が波にさらわれた。明冶29年の明治三陸地震津波で高台に移転したものの、年月の経過とともにもとの場所に戻ったため津波の犠牲になったのである。
 三陸地域では、『津波てんでんこ』と言い伝えられている。津波に襲われた時には、たとえ肉親であっても、まわりにはかまわず、『てんでんばらばら』に逃げて、自分たちだけでも助かれという意味である。田老町では、高さ7・7メートル、長さ1350メートルの大防波堤が1958年に完成した。」
P4030010  この時期は、昭和5年に中国で満州事変の発端となった柳条湖事件が勃発し、翌6年5月15日には犬養毅首相が海軍青年将校に射殺され、政党政治が終わり、その後満州国が承認されました。
 この本では、地震とその時代はどのような社会だったのかが記されていますので、政府の対応や人々の暮らしに及ぼした影響に、思いを巡らすことができます。
 この二つの地震に限らず、毎年のように日本のどこかで大小さまざまな地震が起きています。
 地震国に生きるものとして、備えをするとともに、他人ごととは思わない覚悟が必要なのだと改めて思いました。

| | コメント (6)

2011年4月 5日 (火)

日本の地震の歴史

P4050001    東京の街は、表面的には震災前と変わらなくなりました。
 デパートの営業時間も、元に戻ったようです。
 照明だけは落としていますが、売り上げの低下が大きな問題だからでしょう。

 こんなことでいいのかと、思ってしまいます。

 今日書店で、「地震の日本史」寒川旭著(中公新書)という本を買いました。
Photo  本の「はじめに」では、このように書かれています。
  「日本は地殻変動によって造られた島国である。当然の宿命として、私たちの祖先は、地震によって家を壊されて、命まで奪われるという、ひどい仕打ちを受け続けてきた。そして、この悲しみを乗り越えながら、今日の豊かな文化を築きあげたのである。(中略)
  日本は世界有数の地震国であるが、過去千数百年に及ぶ文字記録が残されており、この間に起きた地震の年月日や被害を知ることができる。これほど古くまで遡って地震の記録を詳しくたどれる国土は世界でも稀である。(中略)
P4030017   一般の人たちにとって、政治や社会に関する歴史は馴染みが深く、多くの書物から知識を得ることができる。しかし、私たちの国土では、様々な時代に起きた地震もまた、当時の社会に大きな影響を与えてきた。これまで、あまり取り上げられなかった地震を加えることで、歴史に対する理解がより豊かになるという期待を胸にして、日本列島の地震を振り返る旅に出たい。」
  そして、表紙カバー裏には、「本書は、『地震考古学』を確立した著書による、日本歴史を地震の連鎖として描く異色の読み物である。」とあります。
P4050003   よく考えれば、地震はよく起こることですが、どこか他人事のように考えていたところがありました。
  新潟の長岡で地震にあったのですが、特に私の身に深刻な被害はなかったので、切実感はありませんでした。
  日本に暮らす以上、どこでも起こり得ることという認識に立って、いたずらに恐れるのではなく、地震を理解したいと思って、この本を買いました。
  理解などできないかもしれませんが、身近なものとして捉えたいと思いました。

| | コメント (4)

2011年4月 2日 (土)

エコアパート

P4010002   日曜日の朝のテレビ番組で、野菜通信(多分)というのがあり、菜園付きのアパートを紹介していました。
 それも、東京のことでした。
 珍しいアパートだと思い、興味を持ちました。
 一年か半年くらい前のことです。
 そのアパートについての本があることを、少し前に新聞で知りました。
 一か月くらい前に買いましたが、時間がなくて読んでいませんでした。
 今日は一日家にいて少し時間があったので、その本を読みました。
P3280008  「畑がついているエコアパートをつくろう」(自然食通信社刊)というタイトルの本です。
 このアパートは木造二階建ての、メゾネットタイプで、四軒長屋のような作りになっています。
 各部屋の前には約5坪程の菜園が付いていて、雨水タンクもそれぞれにあります。
 エコアパートですから、住み手がエコライフができるように色々な工夫がなされていますが、その中でも東京・多摩産の木材を使って建てたというのが、特筆すべきことだと思います。
 「森を守るためのメッセージを建物にこめる」それが、地元の木を使って建てる理由だそうです。
 この本には、いろいろ書いてありますが、少し引用します。
P4010003  「木造建築でつかう木材を単に国産にするだけでなく、木を守る人に再植林するお金が流れていくような仕組みを保障できれば、林業は再生することができます。再生された森は二酸化炭素を吸収するだけでなく、水を浄化しながら蓄え、森の栄養を下流に提供することになるでしょう。建物解体時には、再びリサイクルすることで、数十年後のゴミの削減にもなります。」
 この本には、持続可能な社会のための提案が沢山示されていて、読んでいてワクワクしました。

| | コメント (3)

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »