三陸地方の地震
「地震の日本史」について書きましたが、読んでみて、古代から数限りない地震とともに私たちの祖先は生きてきたことを知りました。
そして、その時々の大きな地震は、人々の暮らしや社会の制度にも大きな影響を与えてきたことがわかります。
この本は縄文時代から始まりますが、縄文時代の地震については、古墳の発掘調査などで断層から地震の痕跡を知ることができます。
飛鳥、平安、室町、安土桃山、江戸、近・現代と続きます。
明治以降の地震では、今回の三陸地方では過去に二回、大きな地震が起きています。
「明治29(1896)年、6月15日午後7時32分、東北地方の三陸沿岸から約200キロ沖合の太平洋海底でM8・5前後の巨大地震が発生した。旧暦5月5日の端午の節句、陸上では震度2~3の揺れが長く続いた。気にとめるほどの揺れではなかったが、35分くらい経って、三陸海岸に大きな津波が押し寄せた。満潮と重なる不運もあって、岩手県の沿岸を中心に1万戸近い家屋が流れ去り、死者総数が約2万2千人の大惨事(明治三陸地震津波)となった。佐竹健治は、東北日本の北側に沿って海底に延びる太平洋プレートと北米プレートの境界が、250キロの長さで、ゆっくりと上下に5~6メートルずれ動いた津波地震と解析した。」
この時期は、どういう時代だったかと言いますと、明治27年に日清戦争の火蓋が切られ、28年4月に日清講和条約が結ばれ、ロシア・ドイツ・フランスの三国が遼東半島の返還を要求しています。いわゆる三国干渉です。
もう一つの大きな地震は、昭和8年に起きています。
「昭和8(1933)年、3月3日は桃の節句だった。午前2時31分に東北地方の三陸沿岸の人たちが地震を感じた。建物の壁に亀裂が生じて崖が少し崩れ、石垣や堤防の一部が決壊する程度だったが、約30分後に津波が襲いかかり、死者・不明者の総数が3064人という大惨事になった。岩手県沿岸の波高は20メートル前後、大船渡市の綾里湾で最大波高28・7メートルに達した。人口1798人・戸数362軒の岩手県田老村田老(現・宮古市)では358軒の家屋と763人が波にさらわれた。明冶29年の明治三陸地震津波で高台に移転したものの、年月の経過とともにもとの場所に戻ったため津波の犠牲になったのである。
三陸地域では、『津波てんでんこ』と言い伝えられている。津波に襲われた時には、たとえ肉親であっても、まわりにはかまわず、『てんでんばらばら』に逃げて、自分たちだけでも助かれという意味である。田老町では、高さ7・7メートル、長さ1350メートルの大防波堤が1958年に完成した。」
この時期は、昭和5年に中国で満州事変の発端となった柳条湖事件が勃発し、翌6年5月15日には犬養毅首相が海軍青年将校に射殺され、政党政治が終わり、その後満州国が承認されました。
この本では、地震とその時代はどのような社会だったのかが記されていますので、政府の対応や人々の暮らしに及ぼした影響に、思いを巡らすことができます。
この二つの地震に限らず、毎年のように日本のどこかで大小さまざまな地震が起きています。
地震国に生きるものとして、備えをするとともに、他人ごととは思わない覚悟が必要なのだと改めて思いました。
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コメント
純子先生
詳しい地震の歴史ありがとうございます。
こうやって見てみると、世界でも一番津波に対する備えができていた地域に起こってしまったような気がします。
それでもこれだけの被害とは、自然の営みが人智を超えたものであることに改めて畏怖します。
阪神大震災の時、これが神戸で起こったことの意味を私なりに考えてみました。この震災により、日本にもしっかりとボランティア精神があったこと、若者が結構頼りになること等うれしくなりましたが、今回は、さらに若いというか子供さんのたくましさや優しさに触れることが多いような気がします。それも被災地だけでなく、義援金など子供さんが自分が貯めていた小遣いをぜひにと…
義援金ももう1000億円を超えたとか…世界からも続々と善意の輪が広がってますね。先人の方たちが恩徳を積んでくださったお陰ですね。また、世界の人たちが愛を出してくださってますね。
私たちも代替エネルギー源は何が本当によいかなどが日常会話に出てくるようになりました。みんながそれぞれ考えたり、行動すれば自ずと変わっていきますね。善い方向に…ありがとうございます。
投稿: 谷口 美恵 | 2011年4月 8日 (金) 13:58
合掌、地震2週間後からモンゴルのプロジェクトの指導に来蒙しております。
少し、忙しかったので、まとめてブログを拝見させていただき、感動で疲れが吹き飛びます。
また、モンゴルに来て感動で涙する日々でもあります。地震に関連することですが、モンゴルの公務員の全員が一日分の給料を日本のため、地震の翌日には寄付したそうです。わたくしの担当するのプロジェクトでは、事業が開始されるとき、日本の災害で亡くなった方々への黙とうから始めてくれています。
モンゴル政府は政府負担で日本在住の帰国希望者を無料で帰国させました。
モンゴルでは、日本がだめになったら、モンゴルにそっくり移ってこられるようにしたらよい、すべての方が、言ってくれました。
駐在大使がお話ししてくださいましたが、ダルハンの孤児院では孤児たちがチャリティ音楽会を開き、自分のお小遣いとともに寄付を申し出たり、
災害で孤児になった全員をモンゴルで引き受けてもよいといった申し出もあったそうです。
この国には、日本の失ったものがまだまだ、残っていることを体感できます。
わたくしのプロジェクト、母子健康手帳を使って母子保健活動を展開する、母と子の健康まちづくりは、こんな時にも関わらず、遠い日本から来てくれた気持ちに応えたいと、これから2年間の大成功でのゴールを目指してスタートしました。
どんな時も当たり前を行うことが、大きなエネルギーや感動を生みます。純子先生のご意見に賛同いたします。
プロジェクトの実施以来、自分の力ではない大いなる神の愛と、支援のおかげをひしひし感じ、感謝の中に使命を生かさせていただいております。
投稿: 松村益子 | 2011年4月 8日 (金) 19:04
谷口さん
本当にそうですね。
人々の日々の会話も、変ってきたと思います。
それが是非、建設的な方向に行くように、みんなで力を合わせていきたいです。
投稿: 谷口 純子 | 2011年4月 8日 (金) 23:30
松村さん
モンゴルの方々の善意のお気持ち、お知らせくださりありがとうございます。
松村さんも、尊い活動をしておられます。
プロジェクトの成功をお祈りするとともに、お元気でご活躍を心から応援しております。
投稿: 谷口 純子 | 2011年4月 8日 (金) 23:35
谷口 純子 先生
常に広い視野と深い御愛念を持ってご指導下さいますこと、心より感謝申し上げます。
ありがとうございます。
先生のブログ「三陸地方の地震」を拝見して、フト思った事ですが…、ご紹介くださった「地震の日本史」のご文章の中に、お料理やお花の写真をご紹介下さっている事が、読ませて戴く私の心の安らぎになっている事に気づきました。ホットします。
先生が先頭に立たれて、被災を受けた皆様に思いをはせる事、そして、信仰者として如何なる平常心を持つかをご指導戴いている事に気づかせて戴きました。
ありがとうございます。
私は趣味で木版画を製作しますが、総裁先生ご夫妻がご指導下さる「四無量心」や「日時計主義」の教えを、信仰者として絵を描く者として、この度の震災をどの様にとらえ、どの様に表現するかを、今考察している所です。
先生のブログを“一つの風景”の様に捉えてしまってご無礼であったのではとは存じましたが、率直な思いを書かせて戴きました。
多くの事をご教示下さる事に深く深く感謝申し上げます。
-奄美の風-
投稿: 輝 計希 | 2011年4月 9日 (土) 13:30
輝さん
ご丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。
生光展や「幸せを運ぶ教育」誌で素晴らしい木版画の作品を見せていただき、いつも夫と賛嘆しております。
木版はもとより、刷りでの彩色も細かい作業かと思います。
新しい作品、楽しみにしております。
投稿: 谷口 純子 | 2011年4月 9日 (土) 23:14