2013年8月
2013年8月28日 (水)
2013年8月27日 (火)
国際教修会4回目
4、
【新しい生き方の提案】
そんな生き方は、良寛のような特別な仁徳者だからできること。普通の人には、都会の便利な生活が幸福をもたらすものだ――そう考える人がいるかもしれません。でも、人間は都会生活で本当に幸福になるのでしょうか?
先日テレビのニュース番組で、日本人の食生活が変わってきたという報告がありました。どのように変わってきたかと言いますと、家庭で食事が作られなくなってきたということです。便利なお惣菜や冷凍食品、レトルトパックの食品など、それらがデパートやスーパー、コンビニエンスストアーなどで手軽に手に入ります。お惣菜を買ってきて家で食べることを中食というそうですが、中食の割合が年々増えているのです。そのため、栄養のバランスが崩れているので、出来合いの総菜を買った場合には、他にこのような食品をとる必要があるという新たな栄養基準を示す必要を厚生労働省は感じ、考えているそうです。栄養バランスを欠いた食品を多くの国民が取ると、将来の医療費にも影響しますから、国家財政にとっても大きな負担になります。またこのような中食や外食は、食品廃棄の重大な原因にもなっています。さらにお惣菜を買うと、それらは使い捨てのプラスチック容器に入れられていますから、資源のムダ使いになります。
中食、お惣菜が沢山買われるようになった背景には、女性の社会進出が大きく影響しています。夫婦共働きや未婚の一人暮らしの男女が増えて、家庭で料理を作ることが難しくなり、時間がない、面倒だというようなことがあると思います。また、日本の企業の長時間労働もその一つの要因になっています。
日本社会の長時間労働は、夫婦共働きや単身世帯の日常生活を余裕のないものにしており、その結果として最も重要で切実な食の問題に大きな影響を及ぼしていることが考えられます。
少し前のことですが、日本ではそれなりに名の知れた脚本家の内館牧子さんが、ご自分の健康と食にまつわる話を新聞に書いていました。彼女はもう六十代半ばの年齢です。相撲の横綱の審議委員もしていましたが、食通で知られおいしいレストランやおいしい食べ物の本を出すほどでした。けれども彼女はお料理が嫌いで自宅では食事を作ることはほとんどありませんでした。仕事関係の人などとの外食が多く、それ以外はデパートの地下食料品売り場でお惣菜や高級冷凍食品を買ってきて、家で炊いたご飯と一緒に食べるという生活でした。
そんな彼女が数年前、仕事先の盛岡で突然倒れ、病院に運ばれました。動脈と心臓の急性疾患で、緊急手術を行い、生死の境をさまよった末、奇跡的に生還しました。数カ月に及ぶ入院生活でしたが、その間に体重は十四キロ減って、規則正しい生活とバランスのとれた病院食のおかげで、健康を取り戻したそうです。以来四年、彼女は毎日せっせと自分で食事を作っています。新聞や雑誌のレシピ切抜きは九冊のスクラップブックになり、こんな楽しく面白い料理を、どうして今までしてこなかったのかと悔やみつつも、ベランダにシソや山椒、バジルなどのハーブを植えて、それを使い料理をし、生活を楽しんでいるそうです。
今日ご参加の方は、男性が多いですから、お料理をする方は少ないかもしれません。しかし家庭生活の中で、料理の役割は大変重要です。私の本、『四季の恵み弁当』にも書かせていただきましたが、私たちが、何を食べるか、どこから来たものを食べるか、どのように栽培されたものを食べるかは、世界の平和に関係します。
また、人間はこの地上の生活においては、肉体を使って神の善を表現しますから、神の御心に叶った食事、それは人や動物を犠牲にせず、肉体を健康にして、十分に働きができるような食事を心がけることは大切です。そのような家庭料理の価値を、社会の構造を作っていく立場の大半を占める男性が良く理解すれば、女性の働く環境も変化していくでしょう。外食や中食の比率は減り、環境破壊や病気の発症率も下がっていくことと思います。
世の中には食事のことなど、天下国家の大きな問題に比べたら、取るに足らない些細なことだという考えもありますが、現代のようにグローバル化が進み、人々の生活習慣が大きく変化した時代には、そのようなことは当てはまらなくなってきております。この中食の増加は、都会生活のいびつさを象徴していると言えます。豊かな生活を目指して、懸命に働いているのに、その結果として、自分で食事を作ることを捨てて、お惣菜にお金を使っているのです。
先ほどからお話していますように、都会の生活は、欲望中心、効率優先で、物質的豊かさが人間の幸福につながるという考えに導かれます。そんな都会生活者に、私たちは都会生活に変わる代替生活を〝森〟で自ら開発し、伝えることが求められます。現代は通信技術などの発達のおかげでそれが可能となりました。「足るを知る」「不便」や「めんどくさい」生活の中でも、心豊かな生活があることを伝えるのです。
私たちが森に移転し、二酸化炭素を出さないで、自然と共に豊かで楽しい生活ができれば、都会生活をしている人々に、都市とは違った生き方があることを示すことができます。そして、自分たちも本当はそんな生活がしたかったのだということに、気がつくきっかけになるのではないかと思います。
人間の本性である神性、仏性を開顕することが本当の幸せにつながります。そこに辿りつくまでの道のりは人それぞれで、幾多の試練を超え、様々な習慣に振り回されながらも、すこしずつ内在の〝神の子〟は目覚めていきます。私たち生長の家の幹部は、生長の家の真理を知ることにより、いかにすれば内在の神性、仏性を明らかに表現することができるかの道を教えていただきました。
道は教えていただきましたが、それを日常生活に実践するのは、それほど簡単ではありません。けれども、強い決意を持って三正行を実践し、日時計主義の生活を送っていきたいと思います。強い意志で教えを生活の中に実践し、新しい文明を構築する体現者となっていきましょう。
皆さまとともに、「自然と共に伸びる運動」を力強く進めてまいりたいと思います。ありがとうございます。
国際教修会3回目
3、
江戸時代に生きた有名な仏教の僧に、「良寛」という人がいます。
良寛は、禅のお坊さんです。彼は沢山の書を描き、和歌、漢詩を残しました。それらは芸術作品としてとても素晴らしいので、今でも日本では大変人気があります。
良寛は新潟に生まれ、実家は地方の名家で、神職を兼ねた名主、今でいえば地方の政治をつかさどる役目のある家でした。その家の長男として父親の跡を継ぐために見習いをしていましたが、ある事件をきっかけに家を出て、やがて仏道に専心します。
二十二歳の時岡山県の玉島にある曹洞宗円通寺で出家得度し、十二年間禅僧修行に励みます。師である国仙和尚より印可の偈(禅宗の修了証)を授けられました。その後諸国放浪の旅をして、三十九歳のころ、故郷新潟に帰って来て、托鉢行脚の乞食僧として、山奥の粗末な庵に住み、当時としては長命の七十四歳まで生きました。
もともと仏教では、僧は必ず里に出て人家の門に立ち、鉢を差し出して食を乞わなくてはなりませんでした。仏法を広める作法として、この托鉢こそは釈迦以来の伝統でした。そんな中、江戸時代になって徳川幕府は、キリスト教を排除するために、寺請檀家(てらうけだんか)制度をつくり仏教を保護しました。この制度は、それぞれの宗派の寺と、地域の人々とを結びつけ、寺が葬式や法事をする代わりに、人々が「お布施」として対価を支払う仕組みです。これに便乗して、寺での葬式や法事が利権化して、僧侶たちは托鉢しなくても食べていけるようになりました。
(*檀家が払うのは喜捨、「お寺へのお布施」は間違い)
このため仏教の伝統であった托鉢が行われなくなり、葬式仏教の色合いが濃くなり、宗教としての仏教は形骸化していきました。
良寛はそんな風潮に反対して、寺を持たず、自らも寺に属さず、仏教を生活の中で生き、托鉢僧として仏の徳を人々に伝え、布施行、愛他行に徹した一生でした。このような良寛の生き方は、宗祖道元の教えに従ったものです。彼は、仏道の実践者となって生きる道を模索し、初志を貫いた人でした。寺の住職に納まり暖衣飽食に甘んじる僧になることを嫌い、無位無冠の生き方を自らに課したのでした。そのため広く人々の尊敬を集め、人気を博したと思われます。
良寛は托鉢の途中で子供たちに呼び止められると、子供たちと一緒に手まりをついて遊んだことが有名で、良く知られています。当時の越後は子だくさんで、農業に忙しい大人は子供の面倒など見る暇はなく、子供は足手まといとして放置されていました。良寛は托鉢の傍ら進んで子供たちと遊ぶボランティアの先駆者でもありました。
良寛が子供たちと遊んで作った歌は沢山あります。
霞立つ長き春日を子どもらと手毬つきつつ今日も暮らしつ
この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし
越後の長い冬が終わって、子供たちと手毬をつくことのできる春の日は、楽しく、暮れないでほしい。
そんな気持の表れている歌です。良寛はこのように托鉢の道すがら、子供たちとも無心になって遊びました。
良寛にとっては子供と遊ぶことも仏道修行だったのです。毎日の生活が家々の門口に立ち、朗々とお経を唱え、その家の人から喜捨の心を呼びさまし、会う人ごとに和顔と愛語を振舞いました。昼間に家々を訪ねても、家人は野良仕事などしていて、残っているのは老人ばかりということもありました。手元の鉢にはお米の一粒も入らないことがあっても、そんなことには関係なく、老人の話を聞いてやり、介護が必要なら手を差し伸べて看病したり、もらってきたものを与えたりしたそうです。
そして一日の托鉢を終えて山の庵に帰れば、体を休め、カエルの声を聞き、月を眺め、質素ではあるが心豊かな生活でした。自分の身の回りのことはすべて自分でして、和歌を作り、書を書き、座禅をし、勉強もしました。日常生活そのものが仏道を生きること、伝えることに徹底していました。だからと言って、堅苦しいことは無く、無邪気に子供と遊んだのです。
そんな良寛にもこんな歌があります
何ゆえに家を出しと折ふしは心に恥じよ墨染の袖
何のために出家して僧となったか、ときおりは自分の着ている墨染めの衣の意味を考えて自分の心を恥ずかしく思え、と自らの心に自制を促しています。
宗教者は人々の尊敬を集める立場にあるので、余程自分を律しなければ、おごりと慢心の心が出てきます。良寛は、そこから宗教は腐敗するものだということを心底わきまえていたのでしょう。
4につづく
国際教修会2
2、
【都会で自然はわからない】
都会にも自然はあります。家庭の庭やベランダで花や野菜を育てている人もいます。私も自宅のささやかな庭で、ミニトマトやキュウリを植えています。公園にも自然はあります。けれどもそれらの自然は、人間が人間のために作った自然で、人間の害になる虫や動物は排除されます。人間によって意図的に作られた、人工物としての自然なのです。本物の自然は、人間に都合よい物ばかりではありません。人間にとって「善い」と感じられるものも「悪い」と感じられるものも含めた〝本物の自然〟を知ることが必要です。それによって初めて自然との共存ができます。人間にとって都合の良い自然しか知らない都市生活者にとって、本物の自然との共存は簡単ではないでしょう。しかし、そのような〝本物の自然〟と向き合い、いかに共存していくかを考えない限り、本当の意味で「自然と共に伸びる」ことはできません。なぜなら、人間は自然の一部だからです。
【人間中心主義から脱け出そう】
エネルギーや資源を大量に消費する現在の文明の背後には、「人間至上主義」の考え方があります。これは、人間の幸福追求のためならば――人間が豊かで、快適に過ごせ、命を少しでも永らえることができるならば、他の動物や植物を犠牲にしてもいい、人間以外の地球のすべては、人間の道具にすぎない――という考え方です。
このような考え方が生まれた背後には、人間が〝万物の霊長〟であり、全てのものを支配する権利があるということを間違って理解し、万物を人間の都合のいいように利用し、消費し、結果を顧みなくてもいいと解釈していたからだと思われます。その当時、人々が考えた「世界」には、神と人間が存在し、神と人間の関係は真剣に考えられても、人間以外の生物、自然界のすべてのものは、人間の〝愛玩物〟や〝道具〟ぐらいにしか考えられていなかっただろうと思います。
しかし、世界の宗教には、もっと深い教えがありました。キリスト教では、天地の万物を神の被造物として見る考え方があり、仏教にも自然界のすべてを仏の命の現れとして尊び礼拝する考え方があります。また、イスラームにも、自然界は〝神兆〟に満ちているとして、自然を貴ぶ考えは存在します。ところが残念ながら、これらの宗教では、それぞれの教え全体の中で、〝その部分〟が強調されてきませんでした。特に、産業革命以降、二十世紀までの期間、宗教は人類が自然を守るよりも、自然を征服することに助力してきたと考えられます。その結果、人類は自然を破壊し、また手なずける技術を獲得し、都市を建設し、今や世界人口の半分が都市に住んでいます。そのため、自然とのかかわりが希薄になった人間は、自然の恩恵を忘れてしまい、自然が人間の生存にとって必要欠くべからざるものであるということを忘れてしまったかのようです。
少し考えれば誰でもわかることですが、人間は、自然の大いなる恩恵を受けて生きています。ところが、「人間至上主義」というのは、自然界がどんな状態であっても、それには関係なく、私たち人間は生きることができると考えます。このような考え方は、人間の利益のためならば何をしても良いという行動につながり、自然破壊を進めます。人間は自然がなくては生きていけない存在ですから、自然破壊が進めば、人間にとって平安に生きることが難しい環境になっていくことは、当然です。その当然の結果が、現在私たちの目の前にあります。
【浪費と消費過多】
先ほども触れましたが、現代の文明は「産業革命」によってもたらされたものです。化石燃料が発見され、様々な科学技術の発達により、大量生産、大量消費、大量廃棄、使い捨ての文化が世界的に広まっていきました。その結果として、生物多様性を初めとした地球の生態系は乱され、地球温暖化が起こり、気候変動が生じています。経済発展に至上の価値を置く文明では、大量のエネルギーが消費され、地球の資源は枯渇してきました。このエネルギーや資源の枯渇を受けて人間が考えたのは、原子力の利用です。ところが、原子力利用から生まれる放射線は、人類だけでなく、生物界全体にとって有害です。その利用を世界的に拡大していこうとしている現在、人類は自分で自分の首を絞める愚を犯しているだけでなく、人類の生存の基盤である「自然界」を危機に陥れつつあると言わなければなりません。
また都会の生活は、人間の欲望を喚起する広告物や目新しい商品に満ちていますから、都会で生きる人々の数が増えれば増えるほど、人間社会は欲望満足の方向に突き進んでいき、その結果として自然破壊はますます進行します。
都会は人間が快適に便利に暮らせるように、エスカレーターやエレベーター、各種の交通機関、電光掲示板などがあふれ、それらは大量のエネルギーを消費しています。けれども、都会生活者にはその自覚がなく、〝他から奪う生活〟を止めることはできません。
【都会と宗教の目的】
私たちが進めようとしている「自然と共に伸びる運動」は、二酸化炭素の排出を抑え、自然破壊を食い止め、自然を豊かにしようとするものですが、そのことと、宗教の教えとはどう関係しているのでしょうか。
その答えとして総裁は、『森の中へ行く』の中で、人間は自然の一部であるから、自然を破壊することは、自分自身を破壊することに繋がる、と説いています。自然と人間は本来一体のものであるから、そのことを常に感じ、感謝する生活が必要であると説いています。神の無限の愛、仏の四無量心を、実際生活で実践する努力をすべきであり、それが人間がこの地上に生まれてきた使命であると言われました。自然の中の、人間にとって有利で、有効な部分、快楽を与え、欲望を満たしてくれる部分に執着して「他から奪う」のではなく、欲望や執着を放ち、「他に与える愛」を実践する。これが〝人間・神の子〟の自覚であり、こうして魂を向上させることが人間の本来の生き方であるということでした。
「他に与える」という時の「他」とは人間だけに限りません。他の生物に対しても、地上生活の〝仲間〟として考えるということです。自然と一体の自己を自覚し、あらゆる機会に四無量心を思い、人間本位の発想をしていないかを反省する。そのような宗教的境地を目指す運動は、自然を排除してつくられた「都会」にいてはできないということでした。宗教が伝える価値は、欲望からの解脱であり、人や命への思いやり、他から奪わず、与える生活を実践することなどですが、都会で生きる限り、これらの実践は大変難しいことなのです。
歴史の伝えるところでも、都市においては宗教は腐敗しやすく、信仰生活は人間の欲望によって汚染されがちでした。
3につづく
国際教修会講話
7月16日17日に行われた、生長の家国際教修会で、私が話した内容を、数回に分けて掲載させていただきます。
なぜ、森の中なのかという話です。
古くて新しい出発
1、
皆様ありがとうございます。
本日は、世界各地から生長の家の幹部の皆さまがお集まりくださいまして、教修会が開催されますこと、大変素晴らしく、感謝申し上げます。
七月七日には、生長の家の〝森の中のオフィス〟の落慶式が盛大に行われ、いよいよ私たちは〝新しい文明〟の構築に向けて、確実に新たな一歩を歩むことになります。その時期に、この教修会で「宗教における都市と自然について」学べる機会を持てましたことは、大変意義のある素晴らしいことと思います。
そこで私も改めて、東京・原宿から、八ヶ岳南麓に移転することの意味について、考えたことをお話しさせていただきます。
すでに『〝森の中〟に行く』という本に書いたように、そもそも私は〝森〟のような場所に移住することには反対しておりました。都会の便利な生活を捨てて、不便な田舎に、ましてや都市ではなく〝森〟に行くことは、人類の進歩に逆行することになるし、生長の家の運動にとっても不利であると思ったからです。このような考え方は、多くの方が持ち、疑問に思われたことではないかと思います。
生長の家は昭和五年に谷口雅春先生によって始められましたが、そもそも当時の雅春先生は神戸という町に住み、サラリーマン生活をしておられました。そんなご多忙な生活の中で、神戸で都市生活者の立場で始められた運動でしたから、生長の家は「都市で始まった宗教」と言えると思います。立教時に、山の中に施設を建てて始められたわけではありません。そして初期のころは人々の要望に応えて、先生の講習会は人口の多い都市を選んで行われ、そこに人が集まり先生の講話に感動した人々によって、教えの輪が広がっていきました。やがて、「誌友会」という信徒の勉強の場が各地に設けられ、それが現代も続いております。そのような歴史を見ますと、人が沢山いる都市こそが、伝道にとって有効な場所であると思われます。
そんな中で、いかに温暖化の問題が深刻化していて、二酸化炭素の排出を減らさなくてはならないと言っても、人の少ない〝森の中〟へ行ってしまったら、教えを伝える対象が少なくなりますから、宗教としての本来の目的を達成することはできないのではないかという疑問が出てきます。生長の家が宗教団体として炭素の排出を減らし、地球環境保全に大きな役割を果たしたとしても、肝腎の教えが広まらず、信徒の数が減ってしまったら、本末転倒にもなりかねないということです。
このようなことを考えると、森の中にオフィスを移転することに疑問がわき、はたして良いことなのだろうか、自然の中に宗教が行くことは本当によいことなのだろうかという疑問が解けない方もまだおられるかもしれません。
私たちは、現代の運動のあり方を考えるにあたって、過去の運動から指針を得ることは、もちろん必要です。しかし、宗教運動は時代の要請に応えなければなりませんから、現代という時代がどんな時代であるかを冷静な目で見つめ、必要ならば、古い基準に縛られずに、新しい考え方や生き方を自ら開発し、それを人々に提案していかねばならないと思います。
私はこの講話で、現代に生まれ、現代に生きる「生長の家」の運動が今、なぜ都会を離れ、〝森の中〟へ行かなければならないのか。生長の家の国際本部が、なぜ都会にあってはならず、自然の中へ移転しなければならないかという理由を五つ挙げ、皆さんのこれからの運動や生活の参考に提供したいと思うのです。
その理由とは、次の五つです――
① 都会では自然がわからない
② 都会では人間中心主義から脱け出すのがむずかしい
③ 都会では、浪費と消費過多をやめられない。よって地球環境問題は解決しない。
④ 都会での生活は宗教の目的と矛盾する
⑤ 都会では新しい生き方は生まれない
2へつづく
2013年8月25日 (日)
函館に行ってきました
函館教区の講習会で、函館市に行ってきました。海に囲まれた函館は、異国情緒に満ちた美しい町で、大小様々な坂は、石畳が特徴です。
坂それぞれに趣きがあり、散策を楽しめます。
函館山の麓から、坂を下っていくと、何処からでも海が見えます。
澄んだ青空と紺碧の海が、昨日はとても素敵でした。
講習会の控え室には、係りの方のお庭にあったお花を飾っていただきました。函館教区の皆さま、お世話になりました。ありがとうございました。
2013年8月23日 (金)
処暑
処暑(しょしょ)――暑さが少しやわらぐころのこと。朝の風や夜の虫の声に、秋の気配が漂いだします。
処暑の初候は――綿柎開く(わたのはなしべひらく)
綿の実を包む萼(がく)が開くころ。
種を包む綿毛をほぐし、綿の糸を紡ぎます。
東京は厳しい暑さの日が続いていましたが、今日の午後短 い時間ではありましたが激しい雨が降り、その後涼しくなりました。
夜になってまたしとしとと雨が降っています。
宇治の盂蘭盆供養大祭の時も、大変な暑さでした。
今年は各地で、猛暑と水不足、豪雨と洪水、少し落ち着ける秋が待ち遠しいこの頃です。
宇治でお料理を担当してくださるのは、元フランス料理のシェフをしていた方です。
毎回工夫を凝らした珍しい食事を用意してくださいます。
今回は、ほうれん草と手作りチーズのカレー・サグパニールというのがありました。
インドカレーのように、オイリーではなく、様々な香辛料が使われていながら、優しい味わいでした。
毎回カメラを持って、食事のテーブルにつきました。
ナンも手作りされ、お料理を教えていただきたいと思ったほどです。
お料理は工夫次第で、多用な広がりを作れるものだと再認識し、大いに刺激を受けました。
2013年8月17日 (土)
蒙霧升降す
春は霞たち、秋は霧けぶる空模様。
東京では、この時期霧がたちこめるなどは、考えられませんが、山沿いでは、よく霧になります。
気温が急に下がったりします。
東京の生活に戻りましたが、本当に暑いですね。
都会は特に、買い物などに行くと、建物の中は冷えていて、一歩外に出れば灼熱地獄?なので、体が変化に合わせるのに大変です。
そんな東京も、夜には少し涼しい風も吹いて、虫の声も聞かれます。
高気温の只中にありますが、少しづつ季節が変わっていくことが、感じられます。
大泉は、昼間はかっと照り付けて、気温も高くなるので、植物にとっては厳しい環境です。
人の手が入らず枯れた植物もありますが、ハーブはとても元気に育ち花が咲いています。
もともと野生のものなので、強いのでしょう。
月見草、白い紫陽花もこの時期きれいです。
2013年8月12日 (月)
寒蝉鳴く
夕暮れにひぐらしの鳴く声を聴くと、秋の到来を思いますが、実際には6月の終わりころから9月まで出会うことができる蝉だそうです。
引っ越しの片づけで忙殺されていて、写真を全然とっていませんでした。
大泉では、夕暮れに必ずひぐらしのカナカナという鳴き声が響きます。
涼しさと寂しさを感じる声です。
トンボが群れになって沢山飛んできますが、これは日本の稲作と切り離すことのできない風景だと、以前に本で読んだことがあります。
大泉にも田んぼが沢山あり、緑のジュータンのような鮮やかな景色が広がっています。
蝶々も大きいのや色鮮やかなものなどいろいろいます。
鳥の声もにぎやかで、セミもクマゼミや名前のわからないものが鳴いています。
ミンミンゼミはいません。少し前には春ゼミが鳴いていて、さわやかで、心洗われるような鳴き声でした。
いのちの短い蝉は、毎朝1・2匹デッキで横になっているのを見ます。
こちらにいると、出かけない限りほとんど人と会うことがなく、ひたすら鳥や虫、空や木が興味の対象になります。
浮世離れしないように気を付けなければ・・・・そんなことはありませんが。
2013年8月 7日 (水)
立秋
目にはさやかには見えませんし、体は夏の厳しい暑さに耐えているので、立秋とは暦の上だけと思ってしまいます。
ですが反面、立秋だからどこかに秋の気配があって、暑さも少しは和らいでくれるのではないかと、ひそかに期待する気持ちがあります。
そして、いわし雲を見つけたり、月見草が咲いていたりすると、季節の変化を感じます。
東京はめずらしく涼しい日が続いていたので、昨日からの蒸し暑さは、殊の外厳しく感じられました。
涼しい風が初めて立つころ。
その風を、秋の気配のはじまりと見て。
そういわれれば、ゆうべは窓を開けて何もかけずに寝ていましたが、朝方は少し寒くて、タオルケットをかけました。
この暑さの中、私は今日北杜市に一回目の引っ越しをしました。
1回目の引っ越しというのは奇妙で、正式には9月の末に引っ越しをするのですが、9月は大変忙しい月で、27年ぶりの引っ越しは、ちょっと予想が付きません。
そこで、夏休みの期間に、夏以外の衣類や、日常生活に支障をきたさない家財道具、大きな家具、大半の食器などを早めに移動することにしました。
ここ何日も段ボールに荷物を詰め、一昨日は引っ越し業者の人が来て、荷物を詰めてくれました。
私は家じゅうを走り回って、出すものと置いておくものをお願いし、久しぶりに夕食後は何もする元気がないほど疲れました。
昨日は段ボールや家具の運び出し、そして今朝は6時原宿出発で、北杜市に8時頃着いてトラックの到着を待ちました。
明日からまた気合を入れて、片付けます。
それにしても、人間は物を持って暮らすのだと思いました。
身軽な生活を心掛けたいとつくづく思いましたが、この気持ちが持続するといいのですが。
引っ越し準備に追われる中の、スピードお弁当です。
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