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2013年8月27日 (火)

国際教修会2

P7060002  二回目アップします。

 2、

   

【都会で自然はわからない】

都会にも自然はあります。家庭の庭やベランダで花や野菜を育てている人もいます。私も自宅のささやかな庭で、ミニトマトやキュウリを植えています。公園にも自然はあります。けれどもそれらの自然は、人間が人間のために作った自然で、人間の害になる虫や動物は排除されます。人間によって意図的に作られた、人工物としての自然なのです。本物の自然は、人間に都合よい物ばかりではありません。人間にとって「善い」と感じられるものも「悪い」と感じられるものも含めた〝本物の自然〟を知ることが必要です。それによって初めて自然との共存ができます。人間にとって都合の良い自然しか知らない都市生活者にとって、本物の自然との共存は簡単ではないでしょう。しかし、そのような〝本物の自然〟と向き合い、いかに共存していくかを考えない限り、本当の意味で「自然と共に伸びる」ことはできません。なぜなら、人間は自然の一部だからです。

【人間中心主義から脱け出そう】

エネルギーや資源を大量に消費する現在の文明の背後には、「人間至上主義」の考え方があります。これは、人間の幸福追求のためならば――人間が豊かで、快適に過ごせ、命を少しでも永らえることができるならば、他の動物や植物を犠牲にしてもいい、人間以外の地球のすべては、人間の道具にすぎない――という考え方です。

このような考え方が生まれた背後には、人間が〝万物の霊長〟であり、全てのものを支配する権利があるということを間違って理解し、万物を人間の都合のいいように利用し、消費し、結果を顧みなくてもいいと解釈していたからだと思われます。その当時、人々が考えた「世界」には、神と人間が存在し、神と人間の関係は真剣に考えられても、人間以外の生物、自然界のすべてのものは、人間の〝愛玩物〟や〝道具〟ぐらいにしか考えられていなかっただろうと思います。

しかし、世界の宗教には、もっと深い教えがありました。キリスト教では、天地の万物を神の被造物として見る考え方があり、仏教にも自然界のすべてを仏の命の現れとして尊び礼拝する考え方があります。また、イスラームにも、自然界は〝神兆〟に満ちているとして、自然を貴ぶ考えは存在します。ところが残念ながら、これらの宗教では、それぞれの教え全体の中で、〝その部分〟が強調されてきませんでした。特に、産業革命以降、二十世紀までの期間、宗教は人類が自然を守るよりも、自然を征服することに助力してきたと考えられます。その結果、人類は自然を破壊し、また手なずける技術を獲得し、都市を建設し、今や世界人口の半分が都市に住んでいます。そのため、自然とのかかわりが希薄になった人間は、自然の恩恵を忘れてしまい、自然が人間の生存にとって必要欠くべからざるものであるということを忘れてしまったかのようです。

少し考えれば誰でもわかることですが、人間は、自然の大いなる恩恵を受けて生きています。ところが、「人間至上主義」というのは、自然界がどんな状態であっても、それには関係なく、私たち人間は生きることができると考えます。このような考え方は、人間の利益のためならば何をしても良いという行動につながり、自然破壊を進めます。人間は自然がなくては生きていけない存在ですから、自然破壊が進めば、人間にとって平安に生きることが難しい環境になっていくことは、当然です。その当然の結果が、現在私たちの目の前にあります。

【浪費と消費過多】

先ほども触れましたが、現代の文明は「産業革命」によってもたらされたものです。化石燃料が発見され、様々な科学技術の発達により、大量生産、大量消費、大量廃棄、使い捨ての文化が世界的に広まっていきました。その結果として、生物多様性を初めとした地球の生態系は乱され、地球温暖化が起こり、気候変動が生じています。経済発展に至上の価値を置く文明では、大量のエネルギーが消費され、地球の資源は枯渇してきました。このエネルギーや資源の枯渇を受けて人間が考えたのは、原子力の利用です。ところが、原子力利用から生まれる放射線は、人類だけでなく、生物界全体にとって有害です。その利用を世界的に拡大していこうとしている現在、人類は自分で自分の首を絞める愚を犯しているだけでなく、人類の生存の基盤である「自然界」を危機に陥れつつあると言わなければなりません。

また都会の生活は、人間の欲望を喚起する広告物や目新しい商品に満ちていますから、都会で生きる人々の数が増えれば増えるほど、人間社会は欲望満足の方向に突き進んでいき、その結果として自然破壊はますます進行します。

都会は人間が快適に便利に暮らせるように、エスカレーターやエレベーター、各種の交通機関、電光掲示板などがあふれ、それらは大量のエネルギーを消費しています。けれども、都会生活者にはその自覚がなく、〝他から奪う生活〟を止めることはできません。

【都会と宗教の目的】

私たちが進めようとしている「自然と共に伸びる運動」は、二酸化炭素の排出を抑え、自然破壊を食い止め、自然を豊かにしようとするものですが、そのことと、宗教の教えとはどう関係しているのでしょうか。

その答えとして総裁は、『森の中へ行く』の中で、人間は自然の一部であるから、自然を破壊することは、自分自身を破壊することに繋がる、と説いています。自然と人間は本来一体のものであるから、そのことを常に感じ、感謝する生活が必要であると説いています。神の無限の愛、仏の四無量心を、実際生活で実践する努力をすべきであり、それが人間がこの地上に生まれてきた使命であると言われました。自然の中の、人間にとって有利で、有効な部分、快楽を与え、欲望を満たしてくれる部分に執着して「他から奪う」のではなく、欲望や執着を放ち、「他に与える愛」を実践する。これが〝人間・神の子〟の自覚であり、こうして魂を向上させることが人間の本来の生き方であるということでした。

「他に与える」という時の「他」とは人間だけに限りません。他の生物に対しても、地上生活の〝仲間〟として考えるということです。自然と一体の自己を自覚し、あらゆる機会に四無量心を思い、人間本位の発想をしていないかを反省する。そのような宗教的境地を目指す運動は、自然を排除してつくられた「都会」にいてはできないということでした。宗教が伝える価値は、欲望からの解脱であり、人や命への思いやり、他から奪わず、与える生活を実践することなどですが、都会で生きる限り、これらの実践は大変難しいことなのです。

 歴史の伝えるところでも、都市においては宗教は腐敗しやすく、信仰生活は人間の欲望によって汚染されがちでした。   

                                    3につづく

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