« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »

2016年6月

2016年6月29日 (水)

「愛国と信仰の構造」を読んで⑤

Img_7223戦前の日本で、宗教がなぜ国家と結びついたかという問題を考えてみます。
今まで書いてきたことをこの本の記述にしたがってまとめますと、明治維新によって、天皇を中心とする国家が生まれました。
そこには、国家神道が国体の中心に据えられ、国家神道は宗教を超えたものと位置づけられます。
教育勅語により国民の精神生活を規定し、大日本帝国憲法も発布されます。
明治憲法は、外面は西洋の近代国家に倣って立憲主義の形をとりますが、内実は天皇を神とし、国家神道が組み込まれていますから、教育勅語と合わせて、祭政教一致の政治が行われました。
国民の間に皇道や国体論の教えが刷り込まれていくのが、教育勅語が発布された、1890年以降です。
それから1910年くらいまでの20年間で、国家神道を普及させる様々な制度やシステムが確立されていきます。
このようにして国家神道は国民の心に浸透していき、その価値観を身につけた国民は、やがて自身がその担い手となって、自ら自発的に行動していきます。
その一方で、“坂”を登り切った明治後半期に生きた青年たちは、明治という新しい時代を作るという、それまでの人々が持っていた目標が見えなくなり、自己喪失すなわち自己のアイデンティティを見出せなくなります。
ちょうどその頃、それは日清日露の戦間期になりますが、日本で「宗教」が、個人の実存やアイデンティティと関わるものだという意味を、初めて持つようになりました。
それまでは、宗教は個人の実存的な悩みに答えるものではありませんでした。
知的な探求を好む自由な個人の実存的悩み--それが「煩悶」ですが、高度な教育を受けて、自らの思想的アイデンティティを求めた末に、「宗教」を拠り所とするような青年が多数生まれてきたそうです。こうして、大正から昭和期に浄土真宗や日蓮宗の信仰を経由して、数多くの人物が昭和維新テロや全体主義に身を投じていったといいます。
ここからは、私の考えを述べさせていただきます。
宗教を拠り所とした人たちの信奉した宗教の教義には、「神の国の理想」「浄土」「天国」「楽園」等があります。また救いの本源である、「仏」や「神」の存在を認めます。
国家神道を身につけた青年は、天皇を「神」と見ます。
そのような人にとって、二つの違う神が存在することを認めるわけにはいきません。そこで、宗教の教義と国体論を一致させる理論が組み立てられます。その結果、国家神道と宗教が一体化していくのです。
当時のナショナリズムの考えの根幹には、「天皇の大御心にお任せすれば、世の中の政治は自ずとうまくいく」というユートピア主義的理想がありました。一方、現実の社会はうまくいっていません。それは天皇の大御心を人々に届かないようにしている“君側の奸”(くんそくのかん)がいるからだという話になり、激しい言論弾圧に結びつきました。
一方、“君側の奸”の所為で天皇の光が届かないから、そういう天皇の側近や政治家、財界人を抹殺することにより、再び日光が届き、“本当の日本”が作られるという考えも生まれました。
そして連続テロ、血盟団事件が起こり、昭和維新運動が始まります。
これらを見てきますと、明治維新から終戦までの日本を動かしてきた思想の共通点が見いだせます。
一つは、古代日本に天皇を中心とした理想的な国家が存在したという考え方です。
それに見習って、明治国家が作られました。
二つ目は、天皇が特別の存在であり、神であるという捉え方です。
どちらも、現実の世界、現実の人間に完全を求めていることです。
現実の世界に完全があるはずはありません。
完全を理想主義的に捉えるのではなく、完全が現実にあるとするところに大いなる矛盾が生じ、つじつまを合わせるために、無理なことをしなくてはなりません。
それがだんだんエスカレートして、戦前の日本になっていきました。
現実の世界に完全を求めてはいけない、無謬を作ってはいけないという事を『愛国と信仰の構造』の本から、学びました。
Img_7208


権力は必ず腐敗するという過去の歴史から、権力を縛るための立憲主義が必要です。
独裁政治にならないためです。
私たちはどうしても現実の世界に、完全性を求めたくなります。
けれども、この世界に完全はなく、どんなに偉大な存在であっても、人は間違うことがあり、無謬ではないということを、心に強く刻む必要を感じました。
長々と書いてきましたが、戦前の日本がどんな道を歩んだかをつぶさに知ることができ、私の考え方、ものの見方に大きな広がりを与えてくれた「愛国と信仰の構造」の著者に、心から感謝をいたします。
このブログをお読みくださり、お付き合いくださった皆様にも、感謝いたします。

| | コメント (4)

2016年6月26日 (日)

福井市に行ってきました

Img_7253 福井教区の講習会で、福井市に行ってきました。
 福井市には、前回までは羽田から飛行機で金沢・小松空港に行き、そこから福井までは車でした。
 今回は月に2便しかない、特急甲信エクスプレスという臨時列車の運転日と合い、小淵沢から長野まで行くことができました。
 長野からは、北陸新幹線「かがやき」で金沢まで行き、更に特急「サンダーバード」で福井入りしました。
 こうして書いていると、昔読んだ松本清張の推理小説、「時間の習俗」を思い出しました。
Img_7268


 短い乗り継ぎ時間が、殺人事件のアリバイ証明に使われるのですが、捜査する方はどこかにからくりがあるのではないかと、綿密に調べます。
 若い頃は、こういう推理小説を読むのが好きでした。
 乗り継ぎ時間に私たちがすることは、お弁当を買うことくらいですが、帰りに福井から特急「しらさぎ」に乗り込んだ時には、真っ赤な顔をした40前後の男性が、寝起きの吃驚した様子Img_7271


で慌てて降りてきて、「金沢ですか?」と聞いてきました。
 私たちの乗った「しらさぎ」は米原行きですから、金沢は通過した後です。
 お酒を飲んで、寝てしまって、乗り過ごしたようでした。
 列車の旅ならではの、ハプニングですね。
 初めて降り立った福井駅は、近年改装したそうで、近代的な駅でした。
 駅の壁面には、恐竜の絵があり、広場には実物大の恐竜の動く模型が三頭並んでいました。
Img_7258


 福井県の永平寺に近い勝山というところで、恐竜の化石が沢山発掘されているそうです。
 今朝の新聞にも、恐竜の化石が新たに見つかったという記事がありました。
 教区の方に、何故福井で恐竜の化石が沢山見つかるのか、理由を聞きました。
 多分と前置きして、勝山に向かって恐竜が逃げてきたけれど、山を越えられなかったので、そこで恐竜が死んだのではないかということでした。
 山の向こう側には、九頭竜川が流れているそうです。
 福井市内から内陸に入ったところで、雪も多く寒い所とのこと。
Img_7260


 恐竜はどうして勝山に逃げてきたのか、何かに追われていたのか、あるいは気候変動があり、生き延びるために来たのでしょうか、謎です。
 福井にはそんなわけで、恐竜博物館があり、人気を博しているとのことです。
 ちょうど梅雨の時期で、土曜日は小雨、日曜日の今日も朝は降ったりやんだりでしたが、午後からは晴れて、講習会が終わって外に出たら、真っ青な夏空に入道雲が美しかったです。
 講習会の控室には、色々な色の紫陽花を飾っていただきました。
 福井教区の皆さま、お世話になりました。
 ありがとうございました。

| | コメント (4)

2016年6月23日 (木)

「愛国と信仰の構造」を読んで④

Img_7237 戦前の日本は、生長の家も含め多くの団体や個人が戦争に協力したことは知っていましたが、その中で伝統宗教が中心的な役割を果たしたことはほとんど知らず、驚きでした。
 王政を復古させ、新たな歩みを始めた日本でしたが、幕末に不平等条約を結ばされ、諸外国からは遅れた二等国とみられ、屈辱を味わいました。
 何とかして一等国になりたい、欧米列強と肩を並べたい、近代国家として認められたいと思いました。
 そして、富国強兵や殖産興業に取り組んでいきました。
 こうした時代には、個人の人生の目標と国家全体の目標が一体化します。
 列強の仲間入りをするという物語と、その国家目標のために生きる立身出世的な物語は一致します。
 敗戦後の日本の歩んだ状況と酷似します。
 明治時代のそのような時代背景を、鋭く捉えたのが作家の司馬遼太郎で、「坂の上の雲」に描かれています。

 明治政府がどのようにして、天皇中心の国家を作っていったかを、「愛国と信仰の構造」の本からから、詳しく見てみたいと思います。
 天皇中心の国家という、日本の国体論を国民に浸透させるために国家神道が大きな役割を果たします。
 国家神道は、天皇と皇祖皇宗、またそれらに連なる神々への崇敬として、江戸時代末期に構想され、明治維新後、国家制度として具体化されていきました。
 そこで唱えられたスローガンが祭政一致で、政治の中心には祭祀をつかさどる天皇がおり、その祭祀を通して下々にも天皇崇敬がゆきわたり国民が統合されるというものです。
 維新政府は1868年(明治元年)神仏分離令を公布して、神社を自立させ、その地位を仏教の上位に高めようとしました。これにより、全国で廃仏毀釈と呼ばれる仏教や民族宗教への抑圧の嵐が吹き荒れていきます。 翌年には、祭祀・宣教などをつかさどる神祇官を政府の最高官庁としました。
 神祇官は、1872年には廃止され、1870年半ばには廃仏毀釈も収束し、先鋭的な動きはいったん落ち着きますが、祭政一致という理念はその後も根強く、明治政府に受け継がれていきました。
 明治に入ってから、新しい皇室祭祀も色々作られました。
 戦前の皇室祭祀で大祭の数は13ですが、そのほとんどが明治期に定められました。
 古代から宮中で行われていたものは、新嘗祭だけでした。
 本の中で、歴史学者のエリック・ホブズボウムが「伝統」は近代的権力の統治のあり方に基づいて発明(インベンション)されるという「創られた伝統」論を展開していることを紹介し、皇室祭祀がこの論に当てはまることを指摘しています。
 皇室祭祀の拡充とともに、全国各地の神社の組織統合も進んでいきました。
 明治維新前は、日本各地に様々な神社があり、それぞれ多彩な信仰を培ってきました。
 幕末までは、日本中の神社を束ねるような統一的な宗教組織は存在しませんでした。
 それが明治になると、皇室祭祀と連携しながら、全国の神社を一元的に統合し、伊勢神宮を頂点にした組織を作り上げていきました。
 その結果、神社神道と呼び得るような一大祭祀組織が形成され、国家神道の重要な構成要素となっていきました。
 それが現在も、人々が意識しないまま続いていっているのです。
 もう一つ重要なのは、1870年に下された「大教宣布の詔」です。
 この中の言葉「治教」がどのような文脈で使われてきたかの現代語訳が、示されています。

 「天照大御神や他の神的存在がすえた確固たる根源に従い、歴代の天皇が受け継いできた治教がある」というものです。
 「教」は、天皇を中心とした政治的精神秩序の軸として公的な次元で機能するものであって、下々の「宗教」とは別のものということです。

 他の宗教とは異なる「治める教え」ということです。

 ですから、「祭政一致というよりも、祭政教一致という方が正しいかもしれません」と、島薗さんは言っています。

 日本の「治める教え」というのは、天皇の祭祀と不可分の、儒教と神道が習合しながら形成されたような国家の教えというものです。
 その教えの核心に「国体」の理念があり、天皇崇敬を基軸とする社会秩序、道徳秩序の教えがありました。
 近代国家は、西洋の常識に従えば、信教の自由を認めなければなりません。
 ですから日本も、信教の自由を認めて、制度化し、1889年に発布された大日本帝国憲法に明文化しました。
 けれども、国家神道は「宗教」ではないので、国家が管理し弘布してもかまわないということになります。
 英語のduplicity(二枚舌・不誠実)という言葉を、どうしても使いたくなります。
 維新後は、西洋の教育システムを導入したり、立憲主義を憲法に取り入れ、神権的国体論と接ぎ木したりして、体制を整えてきました。

 教育システムも、憲法も形の上では、西洋の近代思想を取り入れていますが、内実は国体論が色濃く反映したものでした。
 1890年、憲法発布の翌年、教育勅語が発布され、学校行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。

 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国を肇ムルコト宏遠二徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・・」と続くものです。
 1894年に日清戦争、1904年に日露戦争が勃発し、日本はその二つの戦いに勝利します。
 結果、不平等条約は改正され、治外法権も撤廃されました。さらに関税自主権も回復され、日本は名実ともに西欧の列強と肩を並べることになりました。
 明治時代の前半、必死になって坂を登っていた明治の青年たちは、坂を登りきって見たものは雲だったということです。
 Img_7238


雲は遠くから眺めていれば、実体があるかのように見えますが、その中に入るとつかむこともできないし、何も見えない、見通しのきかない状態になります。
 国の理想と自らの理想が一体になって歩んで来たそれまでの青年とは違い、日清、日露の戦争の頃には、個人の内面の問題に悩む煩悶青年が大量にあらわれます。
 国家神道の教育が生活の隅々にまで染み渡っている青年が、神道では解決できない問題を宗教に求めるのです。
 国家神道に宗教がのみ込まれていきます。

| | コメント (1)

2016年6月20日 (月)

「愛国と信仰の構造」を読んで③

Img_7230_2 前回までは、本が書かれた背景を説明しましたが、本論に入っていこうと思います。
 なぜこのような難しい問題について、私が説明を試みるかというと、日本の近代については学校でも習わないので、私自身がほとんど知らず、知らないで過去を冷静に見ることは難しいと思うからです。
 自分でもわかるように、本の内容を整理する形で説明します。
 ですから書くことは、この本からの知識です。
 明治維新はどのような経緯で起こったかです。
 テレビドラマや映画、ノンフィクション、小説などでしきりに取り上げられてきたテーマですが、専門に勉強しない限り、思想的背景や複雑な流れはよく分かりません。
 江戸末期には、300年続いた江戸幕府の幕藩体制に対する不満と、鎖国をしていた日本に対し、各国から開国をせまる働きかけがありました。
 特に、ペリーが神奈川県浦賀沖に黒船でやって来たのは衝撃的でした。
 幕藩体制に批判的だった吉田松陰を中心とするグループによって、江戸幕府は解体されました。
Img_7231_2


 「一君万民」という思想が、背景にありました。
 「一君」とは天皇で、「万民」はすべての国民で、超越的な天皇のもと、すべての国民は平等という思想です。
 「一君万民」という思想が、どうして江戸幕府を倒すほどの大きな力になったかというと、これが国体だと定義した時に、江戸幕府の正当性が奪われてしまったからだとのことです。
 「万民」は平等であって、天皇だけが超越的な権力を持つのが、日本の国体であるから、江戸幕府には正当性がなく、王政を復古させ、本来的な日本の国体を取り戻すというのが、維新の志士たちのめざすところでした。
 これを中島さんは、『一君万民ナショナリズム』と言い換えてもいいのかもしれませんと、言っています。
 普通一般には、ナショナリズムというと、偏狭な国家主義、国粋主義というように、理解されています。
 「ナショナリズム」を広辞苑でひくと、以下のように書かれています。
 「民族国家の統一・独立・発展を推し進めることを強調する思想または運動。民族主義・国家主義・国民主義・国粋主義などと訳され、種々ニュアンスが異なる。」
 島薗さんが、『その場合の「ナショナリズム」は、「国家主義」というよりも「国民主義」のニュアンスに近いわけですね』と、確認しています。
 中島さんは『そうです』。
 国民国家というのは、「国民は平等であり、国家の主権者である」という考えをベースにした国家形態です。
 ナショナリズムというのは、政治学では左派的な出自を持った思想で、初期ナショナリズムの大きな政治的うねりとして、フランス革命を上げています。
 フランス革命は、絶対王政を倒し、民主的な国民国家を作り上げました。
 国民が主権者となったのです。
 明治維新は、元々あった君主制を否定するのではなく、封建的身分制度を打ち破り、「四民平等」を確立し、本来の君主制へ回帰することでした。
 君主の扱いが、フランスとは全く違いますが、日本の場合、復古すなわち昔にもどすことが、革新のようなニュアンスがあると書かれていますが、その通りだと思いました。
 これを、中島さんは「下からのナショナリズム」と、表現しています。
 それに対して「上からのナショナリズム」がありました。
Img_7235_2


 維新後、明治政府により、天皇崇敬や皇室祭祀、神社の優遇など、天皇を求心力として国家を強くしていく諸方策がとられました。
 数十年かけ、戦前のナショナリズムを支えた国家神道の体制が積み上げられ、完成したころには、日本はファシズム期に突入していきました。
 維新の初期は、「国家は国民のもの」から、やがて「国民は国家のもの」に、変わっていきました。
 「国民の天皇」なのか「国家の天皇」なのか。
 「国民の天皇」なのか「天皇の国民」なのか。
 この言葉はよく読んで考えなければ、違いがわかりにくいです。
 明治維新の思想を支えたのは、「国学」や儒教を背景とした日本的な儒教思想「水戸学」などですが、それを詳しく知りたい場合は、本をお読みください。
 「下からのナショナリズム」は、封建制度を打破し、四民平等を果たし、天皇と人民が神意に従って一体化しているような世界が理想であり、そのようなユートピア的な世界は古代日本において成立していたとします。 ところが現実の明治政府は、天皇が中心になっただけで、幕藩政治のようなものを続けていました。
 そこから、天皇主義者たちによる「自由民権運動」が生まれてきます。
 ここから、日本の右翼団体の元流、玄洋社が生まれますが、主張には、「天皇の大権」と「国民の主権」の一致がありました。
 天皇と国民が神意に従って一体化するという思想は、宗教と結びついていきます。

| | コメント (1)

2016年6月18日 (土)

「愛国と信仰の構造」を読んで②

Img_7220  「愛国と信仰の構造」は、島薗さんと中島さんの多角的な知の応酬という形で、構成されています。
  中島さんは、政治学者ですが、「愛国と信仰」というのは、生涯をかけて取り組むテーマだと思っているそうです。  
  この本が書かれた理由は、現在の日本の社会状況が、戦前の戦争へ突き進んでいった時代と相似していて、その理由の大きな要素として、「戦前の日本が抱えたナショナリズムと宗教の問題が、いまだに片付いていないという認識」から、そこを明らかにしようというわけです。  
 冷戦が終結して、25年が経っています。
 冷戦の終結により、世界に平和が訪れるかと多くの人が思いましたが、それは幻想でした。
 冷戦後の世界は、急速な国際化と、民族紛争、地球温暖化と資源獲得競争が激しさを増し、世界中に右傾化の動きと、生活の不安定さの暗雲が漂っているようです。
 そんな中で、日本も例外ではなく、右傾化と社会の格差、若者の将来に対する不安があります。
 国際化が、経済発展を重要視する政府の行動に結びつき、大企業優遇は社会の格差を生み出し、特に若者の心に不安と不平等感を与えています。
 国民的な連帯が弱まり、個人がバラバラになっていくと、何らかの求心力を求めるようになり、それがナショナリズムに結びつく傾向を生み出すということです。
 1997年に設立された日本会議は、「美しい伝統の国柄を明日の日本へ」を目標の第1に掲げ、皇室を中心とした社会を理想としているそうです。
Img_7227


 第1次安倍政権が「美しい日本」という言葉を使って、何を目指しているのかよく分からなかったのですが、この目標であったことがわかります。
 日本では、国家と宗教という問題を問う姿勢は希薄です。
 それは、戦前の全体主義を支えた国家神道を捨て去り、政教分離の民主的な国家に生まれ変わったのが戦後の日本であると、一般的に理解されているからです。
 ところが、戦前の国家神道は今も脈々と生きているというのが、お二人の考えです。
 嘗て、森喜朗首相が、「神の国」発言で、物議をかもしたことがありましたが、自民党を支える勢力が、日本会議や神道政治連盟などですから、本音が出てしまっただけで、不思議な発言ではないのでしょう。
 神道政治連盟国会議員懇談会の会長は、安倍首相ということです。
 自民党と国家神道の関係が、大変深いことが分かります。
 以上書いたことは、本から得た情報と、それに基づき私が思ったことです。
 

| | コメント (0)

2016年6月17日 (金)

「愛国と信仰の構造」を読んで①

Img_7207 谷口雅春先生の31年祭で、長崎に来ています。
 昨日は小雨でしたが、今朝は曇りから次第に晴れてきました。
 庭では紫陽花の鮮やかな青が爽やかで、くちなしは香気を放っています。
 生長の家が来る参議院選で、「与党とその候補者を支持しない」という声明を出したことはご存知と思います。
 その事に関連して「日本会議の研究」という著書も注目を集めています。
 日本会議だけではなく、日本がなぜ全体主義から世界大戦に突き進んでいったか、明治維新前後からの日本社会全体のナショナリズムと信仰について詳しく書かれた本があります。
 「愛国と信仰の構造」という本です。
  夫が持っていたのですが、著者の島薗進さんは東京大学名誉教授の宗教学者で、日本宗教学会元会長をされていました。
  島薗さんが、宗教学会会長をされていた頃、島薗さん主催の宗教者の集まりに、夫と一緒に何度か出席したことがありました。
  また夫の著書、「神を演じる前に」のはしがきを書いていただいたご縁もありました。
  共著者の中島岳志さんは、大仏次郎論壇賞、アジア・太平洋賞「大賞」を受賞した「中村屋のボーズ」の著者で、私はその本を読んでいました。
  「中村屋のボーズ」は、副題に「インド独立運動と近代日本のアジア主義」と書かれていて、内容に引かれ読んだのでしたが、当時の中島さんは30歳で、その若さで深い内容の本を書くことのできる俊才であるとの印象を持ったのでした。
  そのお二人の共著ということで、興味を持ちました。
Img_7216


  「愛国と信仰の構造」の帯には、『あの国体論が復活している! 安倍政権の背後の宗教ナショナリズムを斬る!』とあります。
  背後の宗教ナショナリズムは、生長の家と関係があるだろうと思いました。
  生長の家講習会では総裁が参加者から寄せられた質問に答える時間があります。
  2・3か月前、「生長の家は日本会議と関係がありますか」という質問がありました。
  総裁は「日本会議とは関係ありません」と、はっきり否定しました。
  その頃の私は日本会議についてよく知らず、多分かつての生長の家の学生運動をしていた人たちが中心になって、「日本を守る会」から派生した団体くらいの認識でした。
  けれども、一般社会では、日本会議について懸念を持っている人が沢山いたようでした。
  また、生長の家=日本会議=安倍政権=自民党という図式もある程度一般に認識されていて、驚きました。
  全く以て、間違った捉え方ですが、社会というのはそのように単純な図式で見る人が多いのだということも知りました。
  最初は夫の本を借りて読んだのですが、すぐに自分用に買い求めました。
  内容が複雑で、江戸末期から明治維新、そして第二次世界大戦までの日本の政治と宗教の関係が詳しく書かれていて、そのような事情に詳しくない私には、気軽に読める内容ではありませんでした。
  しかし、知識としてぜひ知っておかなければならないものだと思いました。
  一読し、大まかな内容は大体理解しましたが、細部の流れは頭の中で混乱していました。
  そこで、二回目は順を追ってノートを取り、頭の中で図式が描けるように勤めました。
  歴史から学ぶことをしなければ、同じ失敗を繰り返します。 
  そのための、とても有効な参考書であると思い、興味のある方にはぜひ読まれることをお勧めします。

| | コメント (3)

2016年6月12日 (日)

山形市に行ってきました

Img_7182 山形教区の講習会で、山形市に行ってきました。
 

 土曜日、日曜日とも良いお天気で、気温も上がり、30度以上になりました。
 

 とわいえ、まだ湿気がそれほどなく乾燥しているので、比較的過ごしやすかったです。

Img_7181


 駅近くの公園には、夏の花、タチアオイが華やかに咲き競っていました
 

 山形は今ちょうど、サクランボの最盛期です。
 

Img_7187


 今年は例年に比べ、暖かかったそうで、サクランボの収穫時期も10日ほど早くなったそうです。
 

 サクランボ収穫前の忙しくなる前に、講習会の日程を決めたようですが、どんぴしゃりと、最盛期とぶつかりました。
 

Img_7189


 サクランボ農家の方は、忙しくて講習会へのご参加はかないませんでしたが、その他の皆さんが多くお運びくださり、前回を15パーセントくらい上回る参加者数となりました。
 

 山形教区の皆さんは、会場に人がいっぱいで、うれしくて感動したと、講習会後の懇談会で感想を述べられました。
 

 笑顔いっぱいの懇談会で、皆さんの明るい雰囲気に、私もうれしく思いました。
 

 サクランボも頂きましたが、甘くて適度に酸味があり、とてもおいしかったです。
 

Img_7192


 講習会の控室には、ちょうど咲き始めた山形特産の紅花、また会員の方が作られた、シルクフラワーのデルフィニューム、押し花アートなど飾っていただきました。
 

 全国各地に、様々なクラフト作りの名人、達人などがおられ、皆さまの素晴らしい才能に敬服いたします。
 

 山形教区の皆さま、お世話になりました。
 

 ありがとうございました。

| | コメント (6)

2016年6月 6日 (月)

帯広市に行ってきました

Img_7132 十勝教区の講習会で、帯広市に行ってきました。

 ここ数日全国的に気温の低い日が続いていましたが、土曜日の帯広も最高気温12度、6月初旬にしては寒い日でした。

 5月末に30度を超える日が数日続いた帯広では、気温の変化に戸惑いを覚えているようでした。

 急に暑くなったので、一斉に花が開き終わってしまい、今はつつじやジャーマンアイリスがわずかに残っているとのことでした。

Img_7146


 それでも、講習会場に飾る花を皆さんにお願いしたところ、飾りきれないほどたくさんのお花が各家庭から届いたとのことでした。

 十勝教区の皆さんは、家庭菜園やお花の栽培を楽しんでいる方が多いそうです。

Img_7143





 十勝教区の講習会は、開催場所の平均化のため、3年振りでした。

 私は何度も十勝に来て、土地の様子はよく知っているつもりでしたが、今回改めて広大な風景に土地の広さを思いました。

Img_7155


 十勝は水田がなく、畑ばかりです。

 北杜市でいつも田んぼや畑を見ていますが、規模が全く違います。

 10倍、所によっては20倍くらいの広い土地に、特産の小麦が青々と茂り、まだ小さな苗のジャガイモ、ビート、大豆、小豆、長芋などの畑が延々と続きます。

Img_7138


 ここに開拓者として入植した人々は、大変な苦労をされたのだろうと思いました。

 フキもイタドリも大きくて、どこにでもいっぱい生えています。

 山菜も豊富で、今は蕨の季節だそうです。

Img_7137


 北杜市より少し遅いようです。

 講習会の控室にも、お庭から運んでくださったお花を飾っていただきました。

 また、お子さんが小さかった時、お雛様を買うことができなかった方が、今年齢を重ねられ、ストーブにくべる薪を使って、お雛様を作られたそうです。

 見事な出来栄えに驚きました。

 彫刻刀で削りやすい桜の木を使われたそうです。

 今年は壮年の集いで、お雛様つくりに挑戦したいといってImg_7141


おられました。

 毛糸で作った羊や十勝特産の黒曜石(十勝石とよばれるそうですが)なども、飾っていただきました。

 十勝教区の皆さま、お世話になりました。

 ありがとうございました。

| | コメント (6)

« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »