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2016年6月23日 (木)

「愛国と信仰の構造」を読んで④

Img_7237 戦前の日本は、生長の家も含め多くの団体や個人が戦争に協力したことは知っていましたが、その中で伝統宗教が中心的な役割を果たしたことはほとんど知らず、驚きでした。
 王政を復古させ、新たな歩みを始めた日本でしたが、幕末に不平等条約を結ばされ、諸外国からは遅れた二等国とみられ、屈辱を味わいました。
 何とかして一等国になりたい、欧米列強と肩を並べたい、近代国家として認められたいと思いました。
 そして、富国強兵や殖産興業に取り組んでいきました。
 こうした時代には、個人の人生の目標と国家全体の目標が一体化します。
 列強の仲間入りをするという物語と、その国家目標のために生きる立身出世的な物語は一致します。
 敗戦後の日本の歩んだ状況と酷似します。
 明治時代のそのような時代背景を、鋭く捉えたのが作家の司馬遼太郎で、「坂の上の雲」に描かれています。

 明治政府がどのようにして、天皇中心の国家を作っていったかを、「愛国と信仰の構造」の本からから、詳しく見てみたいと思います。
 天皇中心の国家という、日本の国体論を国民に浸透させるために国家神道が大きな役割を果たします。
 国家神道は、天皇と皇祖皇宗、またそれらに連なる神々への崇敬として、江戸時代末期に構想され、明治維新後、国家制度として具体化されていきました。
 そこで唱えられたスローガンが祭政一致で、政治の中心には祭祀をつかさどる天皇がおり、その祭祀を通して下々にも天皇崇敬がゆきわたり国民が統合されるというものです。
 維新政府は1868年(明治元年)神仏分離令を公布して、神社を自立させ、その地位を仏教の上位に高めようとしました。これにより、全国で廃仏毀釈と呼ばれる仏教や民族宗教への抑圧の嵐が吹き荒れていきます。 翌年には、祭祀・宣教などをつかさどる神祇官を政府の最高官庁としました。
 神祇官は、1872年には廃止され、1870年半ばには廃仏毀釈も収束し、先鋭的な動きはいったん落ち着きますが、祭政一致という理念はその後も根強く、明治政府に受け継がれていきました。
 明治に入ってから、新しい皇室祭祀も色々作られました。
 戦前の皇室祭祀で大祭の数は13ですが、そのほとんどが明治期に定められました。
 古代から宮中で行われていたものは、新嘗祭だけでした。
 本の中で、歴史学者のエリック・ホブズボウムが「伝統」は近代的権力の統治のあり方に基づいて発明(インベンション)されるという「創られた伝統」論を展開していることを紹介し、皇室祭祀がこの論に当てはまることを指摘しています。
 皇室祭祀の拡充とともに、全国各地の神社の組織統合も進んでいきました。
 明治維新前は、日本各地に様々な神社があり、それぞれ多彩な信仰を培ってきました。
 幕末までは、日本中の神社を束ねるような統一的な宗教組織は存在しませんでした。
 それが明治になると、皇室祭祀と連携しながら、全国の神社を一元的に統合し、伊勢神宮を頂点にした組織を作り上げていきました。
 その結果、神社神道と呼び得るような一大祭祀組織が形成され、国家神道の重要な構成要素となっていきました。
 それが現在も、人々が意識しないまま続いていっているのです。
 もう一つ重要なのは、1870年に下された「大教宣布の詔」です。
 この中の言葉「治教」がどのような文脈で使われてきたかの現代語訳が、示されています。

 「天照大御神や他の神的存在がすえた確固たる根源に従い、歴代の天皇が受け継いできた治教がある」というものです。
 「教」は、天皇を中心とした政治的精神秩序の軸として公的な次元で機能するものであって、下々の「宗教」とは別のものということです。

 他の宗教とは異なる「治める教え」ということです。

 ですから、「祭政一致というよりも、祭政教一致という方が正しいかもしれません」と、島薗さんは言っています。

 日本の「治める教え」というのは、天皇の祭祀と不可分の、儒教と神道が習合しながら形成されたような国家の教えというものです。
 その教えの核心に「国体」の理念があり、天皇崇敬を基軸とする社会秩序、道徳秩序の教えがありました。
 近代国家は、西洋の常識に従えば、信教の自由を認めなければなりません。
 ですから日本も、信教の自由を認めて、制度化し、1889年に発布された大日本帝国憲法に明文化しました。
 けれども、国家神道は「宗教」ではないので、国家が管理し弘布してもかまわないということになります。
 英語のduplicity(二枚舌・不誠実)という言葉を、どうしても使いたくなります。
 維新後は、西洋の教育システムを導入したり、立憲主義を憲法に取り入れ、神権的国体論と接ぎ木したりして、体制を整えてきました。

 教育システムも、憲法も形の上では、西洋の近代思想を取り入れていますが、内実は国体論が色濃く反映したものでした。
 1890年、憲法発布の翌年、教育勅語が発布され、学校行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。

 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国を肇ムルコト宏遠二徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・・」と続くものです。
 1894年に日清戦争、1904年に日露戦争が勃発し、日本はその二つの戦いに勝利します。
 結果、不平等条約は改正され、治外法権も撤廃されました。さらに関税自主権も回復され、日本は名実ともに西欧の列強と肩を並べることになりました。
 明治時代の前半、必死になって坂を登っていた明治の青年たちは、坂を登りきって見たものは雲だったということです。
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雲は遠くから眺めていれば、実体があるかのように見えますが、その中に入るとつかむこともできないし、何も見えない、見通しのきかない状態になります。
 国の理想と自らの理想が一体になって歩んで来たそれまでの青年とは違い、日清、日露の戦争の頃には、個人の内面の問題に悩む煩悶青年が大量にあらわれます。
 国家神道の教育が生活の隅々にまで染み渡っている青年が、神道では解決できない問題を宗教に求めるのです。
 国家神道に宗教がのみ込まれていきます。

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コメント

日々ご指導ありがとうございます。

生長の家の今回の選挙のご方針を国民の義務への警鐘とお導き戴き、緊張が走ります。

輝子先生の「憲法記念日だけは日の丸を掲げない」のお言葉脳裏に残っています。

投稿: 小野 公柄 | 2016年6月24日 (金) 00:07

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