2022年9月11日 (日)

節約生活

  私の住んでいる北杜市の隣に、韮崎市があります。
 韮崎の駅前には、家電量販店や全国展開している書店のチェーン店などがあり、時々出かけます。
 先日も夫がI-Padの周辺機器が必要だったのですが、私は電気店に用事がなかったので、書店で夫と待ち合わせることにしました。
 甲府にも大きな書店はありますが専門書などが多く、背の高い書棚がずらっと並んでいます。
 韮崎の書店は一般向けで、広い売り場は開放感があり全体が見渡せます。
 Img_8685 婦人雑誌のコーナーに行ってみると、壁に立てかけられた新刊の雑誌が並んでいました。
 ほとんどが高齢女性向けの雑誌で、少し驚きました。
 日本の65歳以上の女性は2021年現在、女性人口の32パーセント約3分の1ですから、その対象に向けて雑誌がつくられるのは当然と言えばそうかもしれません。
 そしてその内容が、「少ないものですっきり暮らす」「限られた年金で豊かに暮らす」等、生活に即した実質的な見出しが多く見られました。
 さらに一般向けの本の中で今目立つのが、少ないお金でいかに生活するかという本です。
 こちらは高齢者だけでなく、若い人が実際の生活を披露していました。
 2・3カ月前、新聞の広告欄で「三千円の使いかた」(原田ひ香著)中央文庫刊というのが目に入りました。「50万部突破」と書かれており、「どおしてそんなに」と興味を持ちましたが、その本のことは忘れていました。
 ところが最近近くにブックカフェができ、そこの棚にその本を見つけ、手に取って読んでみると面白そうな内容だったので買いました
 帯には「知識が深まり絶対『元』をとれちゃう『節約』家族小説!」とありました。
 格差が大きくなり、コロナ禍で生活困窮者の増大が社会問題になっています。
 Img_8876 ウクライナとロシアの戦争も、物価上昇の大きな要因です。
 かつてのような経済発展は望めない現状で、如何に出費を抑え心豊かに生活するかを人は求めているのかもしれません。
 また高齢者の場合は、高度経済成長期を過ごし右肩上がりの生活を振り返ると、変わりやすい現実を念頭に置いて堅実に生活してきたかを、自らに問いている場合もあるでしょう。
 いずれにしても、ものに踊らされず、地に足を着けて着実に生活していこうという機運が高まっているように感じられます。地球温暖化の時代、それは歓迎すべきことであると思います。

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2022年8月 7日 (日)

カラスの子

 ここ半月位、我が家の周辺ではカラスが来てよく鳴きます。
 多分どこかの木に巣を作って、子育てをしているのではないかと思います。
 東京の原宿に住んでいた頃も、庭の大きな松の木にカラスが毎年巣を作りました。
 子どもたちが学校に行くときには、その木の下を通らなくてはいけません。
 まだ小学校の低学年だった娘は、頭の上にカラスが来てつつかれたか何かして、泣いて戻ってきたことがありました。
 以来カラスの子育ての時期には、晴れていても傘をさして木の下を通るようになりました。
Img_8718  カラスは黒いので、それが何羽も来ると少し不気味な感じがします。
 ヒチコックの映画、「バード」を連想してしまいます。
 家の周りではカラスがカアカア鳴いている下に鹿がいたりして、ちょっとしたワイルドライフの感があります。
 数日前の朝のこと、私がカーテンを開けて外を見ると、カラスが何羽かいて人の気配に「カアカア」と鳴き始めました。
 その時私の口から出てきたのは、「カラス何故鳴くの・・・」という童謡でした。
 「カラスは山に、可愛い7つの子があるからよ、可愛い可愛いとカラスは鳴くの・・・」と歌詞は続きます。
 私はこの歌を口づさみながら、カラスに対してこんなにやさしい目を向けて歌を作った人がいたのだと気付きました。
 Img_8724   この歌は野口雨情の作詞で本居長世が作曲しています。
 カラスは1度に7つも子供(卵)を産まないので、7つの子というのが謎だったそうですが、野口雨情がこの詩を書いたとき、雨情の息子が7才であり、また雨情は7歳の時母親を亡くしているので、息子への親の思いと母を恋しく思う子供の思いが重なっているのではないかと言われています。
 このような背景事情を知ると、カラスに対する暖かい眼差しの理由がよく分かる気がします。
 幼い子供だけでなく大人も童謡の世界に浸ると、人間だけではなく広く生き物全体への一体感、難しい言葉でいえば、対称性が養われると思いました。、
 もう一つ私が思い出したのは、「カラスの赤ちゃん何故鳴くの・・・」という歌です。
 「あかいお帽子欲しいよ、あかいお靴もほしいよと かあかあ なくのね」という歌詞です。
 黒いカラスが、あかい帽子や靴をほしいと思うのは、人間の勝手な思い込みで、カラス自身は自分が黒いことを何とも思っていないのではないかとそんなことを思いました。
 ドリフターズの志村けんが、「カラス何故泣くの?カラスの勝手でしょ」といったのは、彼のギャグ中のなかなかの傑作だと改めて思った次第です。

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2022年7月 8日 (金)

先生の太鼓判

 今年の5月末、森の中のオフィスでは職員対象の健康診断が行われました。
 健診結果が届いたのは、約2週間後の6月半ばでした。
 例年、特に大きな問題もなく過ごしてきましたが、年齢も重ねてきたので、結果を見るのは少しスリルを感じます。
 大きな封筒にはさみを入れ、中を開けると目に飛び込んできたのは、”E”判定でした。
 もっとも悪い結果です。
「血液検査の結果が異常です。精密検査を受けてください」と書かれてありました。
 得体のしれない病巣が、体の中に潜んでいるのかとの疑いが心の中に一気に広がり、ドキドキしました。
 血液検査の欄を見ると、ヘマトクリットの数値がE判定に属するとのことでした。
 昨年、1昨年と比べるとそれほど数値に大きな開きはないように思えますが、過去2年はB判定なので、少しの違いでEになるのだと分かりました。
 Img_8405 クレアチニンの数値が高いとどういうリスクがあるのか、ネットで調べました。すると多血症の疑いか脱水症とありました。
 多血症というのは、いわゆる血液ドロドロで、脳梗塞などの危険があります。
 私は食事にはそれなりに気を使い、血圧も正常で他の数値に問題はありません。
 そこで思い至ったことは、脱水症です。
 健診の前日は午後六時に夕食をいただき、そのあとはほとんど水分をとっていませんでした。
 夜枕元には、小さな水筒に白湯を入れたものを置いていますが、夜中に起きるのを避けたいとの思いから、のどを潤す程度であまり飲みません。
 健診の日の朝も、ほとんど水分をとらずに9時からの健診を受けました。
 そのせいで、脱水に近い状態だったのではないかと自分では判断しました。
 結果の出た日の翌日は、近所の診療所がお休みだったので、2日後に行きました。
 この診療所は数年前に開所した所で、院長は都内の大きな病院の院長経験者の女性です。
 副院長は、院長の夫で東大名誉教授の病理学者です。
 院長も東大医学部卒の経験豊富な人なので、私は予防注射に行くくらいですが、安心できる人柄でもあり信頼していました。
Img_8524  その日は木曜日で10時からの診察でしたが、私は3番目で比較的早くに見ていただきました。
 健康診断で悪い結果が出たのでとお話しして、結果の用紙をお見せすると、
「どうしてこの数値がEなのでしょう。何の問題もありません。これは私の専門分野です。」といわれました。
 私はほとんど水分をとっていなかったので、このような数字になったのかもしれませんとお話しすると、その通りですといわれました。
 大丈夫だろうとは思いつつも、2日間の不安は先生の太鼓判で、雲散霧消しました。
 年齢を重ねると鈍感になって、脱水症になる危険があるということを思い出し、それなりに水分をとることは大切なのだと思いました。
 自分では気を付けているつもりでも、素人判断せず、こまめに水分を補給し、配慮を怠らず過ごすことの大切さを学んだ出来事でした。 

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2022年6月 9日 (木)

ウクライナに平和を

 5月末に母の7回忌法要が、伊勢で行われました。3回忌の時はちょうど講習会と重なり出席できませんでした。
 今回も前日に会議が入っていましたが、会議終了後に伊勢に向かえば、翌日の法要には間に合いそうなので、夫と二人で出席することにしました。近鉄の宇治山田駅に着いたのは午後7時を過ぎていましたが、その日は駅近くのホテルに泊まり、翌朝法要会場のお寺に直接行きました。
 東京に住む一番下の妹は出席できませんでしたが、姉妹四人と伊勢に住む孫、ひ孫も参加し、母の法要を無事済ませることができて、皆で喜びました。
 Img_7845    その後父の家に行き、お昼をいただきましたが、生長の家の白鳩会の支部長をしている妹が、「お父さん、P4Uに参加して歩くんよ」と話してくれました。「へえー、本当?」と私は驚きました。
 若い時は、生長の家の宇治別格本山の練成会などにも参加した父でしたが、その後は講習会以外、生長の家の集まりに参加することはほとんどない人でした。
 「熱心に勧められたんでなぁ」と父は言っていました。
 ロシアが一方的にウクライナへの侵略を始めたのが今年の二月でした。
 国連安全保障理事会の常任理事国でもあるロシアのような大国が、国際法を無視して隣国に戦争を仕掛けるなど、誰もが想像もしない事態であり、世界中が仰天しました。
 生長の家でも直ちにウクライナ支援に取り組み、P4U(Peace for Ukraine)と銘打ったイベントを始めました。多くの婦女子が国外に避難し、人々の暮らしは困難を極めていましたから、少しでも助けになるよう、私たちは募金活動を始めました。
 また、ウクライナは日本からは遠い国なので、ウクライナのことを知ろうと皆で色々情報を収集したり、ウクライナの人々に気持ちを寄せるために、ウクライナ料理を作ったりという活動もしました。
 Img_2717 その中で平和を強く願って、言わば平和行進のようなものをリレー形式ですることが決まりました。コロナ禍が続き、3密を避けるためです。
 観音様の顔を彫った棒を手作りし、それをバトンにして自転車に乗ったり、電車あるいは徒歩で思いをつないでいくのです。
 各県単位、あるいは二県にまたがってこのリレーは行われました。
 それに、95歳の父も参加したのです。
 Facebook上で父がバトンを渡され、妹が後ろを歩く姿が掲示されました。
 実際に父の歩く姿を見、バトンを渡すときには緊張しているようで怖い顔の父を見て、文明の機器の威力を感じました。
 高齢の父ですが、広島の被爆者でもある父は戦争の悲惨さを嫌というほど知っているはずです。父はどんな気持ちで歩いたのかはわかりませんが、人間というものは何度も同じ過ちを繰り返すものなのだと思ったに違いありません。
 このリレーは準備などもあり、5月くらいから全国各地で行われるようになりました。
 コロナで二年以上活動ができなかったので、お年寄りも含めて多くの人が参加してくださり、盛り上がりを見せているようです。
 戦争の早期終結を願い、新バージョンの世界平和の祈りを朗誦し、それぞれの人が世界の平和のために自分が日常生活の中で何ができるのかということに、真摯に向き合うことができた機会にもなったのではないかと思います。

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2022年4月 9日 (土)

モスクワの婦人

 私はロシアがソ連と呼ばれていた時代に、航空会社の客室乗務員としてモスクワに何度か行ったことがあります。それは1970年代で、当時日本で国際線を運航していたのは一社だけでした。
 東西冷戦下でしたから、モスクワ便はありましたが、限られた人数しかビザが発給されません。取得できたのはパイロットと客室乗務員併せて、50人か100人位だったのではないかと思います。ビザの有効期間も半年か1年で、ビザの持ち主はその間何度もモスクワに行くことになりました。
 私はそのころソ連という国は、言論の自由がなく、政府の方針に逆らったらすぐに捉えられる恐ろしい国だと思っていました。実際モスクワの空港に降り立ったら、銃を構えた兵士がいて重々しい雰囲気でした。外国人専用のホテルも外見は重厚で立派なものでしたが、床には絨毯もなく板張りで、素足で歩くと木の縁のささくれが足に刺さりそうでした。いつも監視されているようで、盗聴マイクが設置されているというようなこともいわれました。
 Img_7798 その時代は最近の状況と同じで、ソ連の上空を外国の飛行機が飛ぶことはできませんでした。ですから日本からヨーロッパへ行くには、いったんアラスカのアンカレッジに寄航し給油後ヨーロッパに向かうのでした。そのためずいぶん時間がかかりました。ソ連崩壊後は、ロシアの上空を飛行することが可能となり、ヨーロッパは近くなったのです。
 ソ連時代は、食料や物資が少なく、人々は長い列を作っていました。ドルショップに行けば物は豊富にありましたがとても高価で、一般の人が買えるものではありません。モスクワでは会社が、滞在する乗務員のためにキッチン付きのアパートを借りていて、私たちはそこで食事を作ることもありました。東京から食材を持ってきて、お鍋やすき焼きなど簡単なものです。食事事情が大変貧弱で、ホテルで食事をすると2時間から3時間かかるのが普通でした。考えられない効率の悪さだったのです。
 そんなところでしたから、私はこのような国で生きることができる人は、私とは全く違う人種であると思っていました。20代で人生経験も浅く、ものごとを客観的に広い視野で見ることができなかったのでした。今のロシアは物も豊富にあり、お金さえ出せば誰でも自由に買い物ができるようになったそうです。
 このような私のモスクワでの体験は、以前にもエッセイに書いたことがあります。数日をモスクワで過ごした私は、日本に帰るために会社が用意した大型バスに10数名の仲間と乗っていました。モスクワのシェレメチェボ空港までは1時間くらいかかるので、皆それぞれ窓側に1人で座っています。窓の外の景色を見ていた私の目に、1人の老婦人が大きな袋をもって道路を横断するのが見えました。灰色の地味なコートを着て、頭にも灰色のスカーフを被っていました。その夫人の姿を見ていたとき、私の心に突然天来にひらめきのように「ああ、そうなのだ」と、今まで私の心を覆っていたベールが取り除かれました。
 私はその時までソ連のような特殊な体制で生きている人は、自分とは全く違う人種だと思っていたのでした。ソ連という国とそこで暮らす人とを同一視していたのでした。けれども、ここで生きているのは私と同じ人間で、その人にも当たり前の日常があり、喜びや悲しみを経験しながら普通に生きているのだということが、一瞬にして理解できました。こんな当たり前のことがなぜわからなかったのか、今では不思議な気がしますが、私の人間に対する理解がそれほど未熟なものだったのでしょう。
 我が家にある地球儀は冷戦時代のものなので、ウクライナはソ連の中に含まれています。モスクワの近くにキエフがあります。冷戦後ウクライナは独立国となりましたが、今でもお互いの国に親戚や友人知人が沢山いるそうです。そんな2つの国が戦争しているのです。それもロシアからの一方的な侵略戦争です、ロシアの人には報道規制がかけられて真実が伝えられていません。やがて本当のことが分かるときが来るでしょう。その時ロシアの人は真実を知り憤り苦しむでしょう。真実を伝えないことは大きな罪であり、人権侵害も甚だしいものです。
 Img_7811  私は数日に一回、パン焼き機でパンを焼きます。今日も強力粉に全粒粉と干しブドウ、ヨーグルトを入れてパンを焼きました。パンが焼けると部屋中に良い香りがして、幸せな気持になります。こんな当たり前のなんでもない日常に、大きな喜びがあります。その日常がウクライナの人々から奪われています。ウクライナの人々の支援のために募金などをしようと思っています。
 それと共に、私にできる世界の平和に貢献できることは、自分の接する人を愛することです。親切を尽くすことです。笑顔で挨拶することです。世界の平和を願うと言いながら、夫婦や家族がいがみ合っていては、それは平和ではありません。自分の都合を優先せず、目の前の人に愛を尽くします。
 モスクワ郊外には広大な白樺の原野が広がっていました。ロシアに真の平和が訪れることを願います。ロシアからウクライナへの侵略戦争が1日も早く終わることを祈念します。

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2022年3月11日 (金)

あいたくて ききたくて 旅にでる

 私は最近「あいたくて ききたくて 旅にでる」小野和子著(パンプクエイクス刊)という本を手に入れました。書店の店頭にはなくて、注文して取り寄せてもらったのです。
Img_7273  この本の著者を知ったのは、NHKの「こころの時代」という番組で小野さんがインタビュ―に応えておられるところを偶然見たのがきっかけでした。かなりの年配と思われるその女性は、年齢を感じさせない明晰さでよどみなく話を進めていました。話の内容から、各地に伝承されている民話を訪ねて、仙台を中心に民話の語りを聞くために50年も活動を続けて来られたことがわかりました。。
 民話を語ってくださる方を訪ねて聞くという営みを、民話の「採集」や「採話」と言ったりする場合があるそうですが、小野さんは「採訪」と言っていて、その意味について『「【聞く】ということは、全身で語ってくださる方のもとへ【訪う】こと」という思いが込められています。』と言われます。
 今年八十八歳になられた小野さんは、三十代後半から週末になると夫に三人の子供を預けて、仙台周辺の村々を訪ね歩いたそうです。ノートとテープレコーダーをもって「幼いころに聞いて憶えている昔話があったら、聞かせてくださいませんか」と言って、戸を叩いたそうです。何の収穫もなく手ぶらで帰ることもあったそうですが、思いがけない貴重な出会いもありました。私はそのひたむきな姿を想像して、まるで托鉢に歩く僧侶ようだと思いました。
 この本の中に収録されているのは、昔話もありますが、それよりも物語を語る人の実人生が話されていて、人の暮らしの真実が見え、私には興味深いものでした。
 Img_7417   ヤチヨさんという人が語る「猿の嫁ご」という話は、私が幼い頃母が枕元で語ってくれた昔話で、なじみがありました。
 ある所に父親と三人の娘がいて、父が農作業から帰ってくると娘は飲み物を進めます。けれども父は「湯も茶もいらねえが、山の猿のところに嫁に行ってくれねえか」と娘に頼むのです。長女も次女も父親の申し出にとんでもないことと怒りますが、三女はなぜかすんなりと父の申し入れを受け入れます。
 何故こんなことになったかというと、東北地方は米があまり出来ず、加えて山の上の棚田となると水がなかなかたまりません。父親は「誰か田んぼに水を入れてくれたら、三人いる娘の一人を嫁にやる」と、独り言のように言ったのです。すると猿が来て、田んぼにたっぷり水を入れてくれたので、約束を果たさなくてはならなくなりました。この話の結末は、娘が高いところにある藤の花をとってほしいと猿に頼み、藤の花を取ろうとした猿は枝が折れて川に落ちて死んでしまいます。そして娘はとっとと家に帰るというものです。
 「猿の嫁ご」の話は、誰もが知っている話だそうです。私の祖母は新潟の長岡の人でしたが、祖母から母に伝えられました。この話の背景には、かつての女性が置かれた環境があります。女性は一度嫁に行ったら、婚家の風習に合わせ自由に何かをすることはできませんでした。気に入らない環境でも簡単に実家に帰ることもできません。ところがこの話の三女は、素直に父の願いを聞き入れるのですが、最後は不合理な環境から自分の采配で抜け出すのです。そのたくましい生き方に、女性たちはあこがれを持ったのかもしれません。
 幼い頃、なんとなく面白いと思って聞いていた話が、こんな形で女性の人生に影響を与えていたことを知り、民話の奥深さに新たな視点を持ちました。

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2022年1月 8日 (土)

二年ぶりの伊勢

 私の父は1月6日が誕生日で、今年95歳になりました。
 その父が去年の夏病気になり、一週間ばかり入院しました。
 当時はコロナの感染者が多く、お見舞いに行きたいと思っても行けるような状況ではありませんでした。
 入院も大変で、コロナ禍では誰も面会に行けず、退院したとき父から大きな声で「家が一番いい」と電話がかかって来たほどでした。
 Img_6973 そんなことがあり、昨年の12月ごろは、山梨県でも感染者がほとんどいない日が続いたので、思い切って伊勢に帰りました。
 たとえ一週間でも高齢者の入院は大変で、父は弱っているのではないかと案じていましたが、会ってみると元気で安心しました。
 私には4人の妹がいますが、3人が伊勢にいます。
 私のすぐ下の妹は、父の家の隣に家を建てて、何くれとなく父の世話をしてくれるので、私は安心していられます。 
 他の二人の妹にも助けられています。
 父と話をしていて、知人の話になったのですが、私も父もその人の名前が出てきませんでした。
 ところが翌朝、何々さんだったねと、前夜話していた人の名前を父は思い出して口にしたので、思い出せなかった私は驚きました。
 Img_6980 Img_6974 父は昔の話になると、俄然元気になり、饒舌です。
 それにどの思い出も良い話ばかり、周りの人に助けられた話ばかりで、これが元気の秘訣なのではと思ったことでした。
 毎年お正月には伊勢神宮にお参りに行くのですが、伊勢神宮は混雑が予想されていたので避けて、今回別宮の瀧原宮にお参りしました。
 高校生の頃に一度行ったことがありましたが、記憶はおぼろげになっていました。
 木々に囲まれた自然の中にあるお宮で、森の深さが感じられ、俗化しておらず素朴な中に厳かさもあり、とても良い雰囲気でした。
 伊勢神宮の遷宮の翌年には、瀧原宮も遷宮するそうで、伊勢神宮と同じ作りになっていました。
 コロナ禍の帰省にためらいもありましたが、思い切って行ってよかったと思っています。

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2021年7月 5日 (月)

ハスカップを植えました。

  今から50年近く前、私は航空会社の客室乗務員をしていました。
 国際線の乗務でしたが、私の会社では1年に1回輪番で国内線の乗務がありました。
 期間は1か月か2か月、どちらか記憶が定かではありません。
 当時日本には航空会社が3社あり、国際線を運航しているのは日本航空だけでした。
 全日空と東亜国内航空が国内線を担当していました。
 そのため日本航空は、国内線といっても、東京から札幌、大坂、福岡、それに本土復帰後の沖縄だけでした。
 その国内線の乗務で札幌に行ったときのことです。
 札幌千歳空港は、今ではとても想像できないほど小さな空港で、自衛隊の千歳基地に間借りしているような感じでした。
 千歳は札幌と苫小牧の中間地点にありますが、どちらかといえば苫小牧に近い位置です。
Img_5790  そのため札幌泊まりといえば、ホテルは苫小牧でした。
 乗務が終わると会社が配車したタクシーで、苫小牧のホテルに向かうのですが、ある時タクシーの運転手さんが、ハスカップの話をしてくれました。
 千歳から苫小牧まではまっすぐな道路の両脇は森が続き、あまり交通量も多くありませんでした。
 その森の中には、ハスカップという木の実があり、アイヌの人たちが好んだもので、そのジャムはお菓子などに使われると話してくれました。
 まだブルーベリーなどが市場にはなかった時代、苫小牧の森の中で採れる珍しいハスカップという木の実は神秘的で、私の好奇心を刺激するものでした。
 Img_5791   その後ハスカップのジャムを使ったロールケーキがあることを知り、札幌に行ったときには時々求めていました。
 つい最近のことですが、小淵沢の道の駅で植物を物色していた時、ハスカップの苗を見つけました。
 どうしてこんなところにと思いましたが、ブルーベリー似た色で円錐形の実が付いていました。
 北海道とよく似た気候だから、多分育つのだろうと思い、700円くらいでしたが買って、家の菜園に植えました。
 後で調べてみると、不老長寿の実として今ハスカップは人気なのだそうです。
 カルシウム、鉄、ビタミンC,ビタミンE、ポリフェノールなどが他の食べ物、果物とは比べられないほど多く含んでいるそうです。
 苫小牧周辺にかつてあった自生種はほとんどなく、今では広く栽培されているとのことでした。
 いつの日にか不老長寿の実で、ジャムが作れる日が来ることを夢見ています。

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2021年6月10日 (木)

鹿との共存

 今年で北杜市に移転して8年目になります。
 8年前の9月末にこの地に住まいを移し、ほどなくして翌春のためチューリップや百合、キキョウ、シャクヤクなどを植えました。
 初めての冬は記録的な大雪に見舞われましたが、それでも春は確実に訪れて、秋に植えた球根や花たちは美しい花を咲かせました。
 Img_5584 厳しい冬を経験した後の花爛漫の春は、心躍る喜びでした。
 その年の秋にも、沢山のチューリップや花々を植えました。
 四月初め、秋に植えたチューリップの芽が出てきました。
 冬の寒さに備えて落ち葉をかぶせ、覆いをしていましたが、芽が出てきたのでそれらを取り除きました。
 チューリップの芽が出やすいようにと考えたからです。
 それから2~3日たった時チューリップはどうなったかと見ると、芽がすべて食べられ球根も掘り返され食べられていました。
 声も出ないほどの驚きとショック、本当にガッカリしました。

 2年目で鹿も美味しい花の存在を知ったのだと思います。チューリップが咲き競うさまを楽しみに描いていたのですが、その夢は一瞬にして儚いものとなりました。
 そのあと少したって、シャクヤクが咲きました。
 Img_5587  シャクヤクは前の年より少し大きくなり、こちらは見事でした。
 百合も出てきましたが、つぼみが大きくなったころ花の部分が食べられていました。
 さらに紫のキキョウも、花のつぼみを食べられました。
 どれも鹿の仕業です。
 それ以来、球根や花を植える時には注意深くなり、覆いをしたり棒を立てたり様々な工夫をするようになりました。
 鹿は花のつぼみや葉っぱを食べるのですが、その量は1日に3㎏と言われます。
 今年も春先の気温の急な変化があり、植物たちには厳しい春となりました。
 シャクナゲは4本ありますが、そのうちの1つは沢山のつぼみがほとんど萎れて、花があまり咲きませんでした。
 シャクヤクは今ちょうど季節で今年も見事な花をつけました。
 そんな中ふと、鹿が好きな花と嫌いな花があるのではないかと思い至りました。
 調べてみると、シャクヤク、シャクナゲ、クリスマスローズ、マリーゴールド、ラベンダー、デルフィニュームなどは鹿が食べないので、鹿の食害のある所ではそれらの花だけで花壇を作ることも良いのではないかと書かれていました。
 私はシャクヤクが鹿の害もなく毎年美しく咲くことの理由を考えたことがありませんでしたが、そういうことだったのかと納得しました。
 水仙は鹿が食べないと、地元の人から聞いて知っていました。
 鹿に食べられないようにと心を悩ますことが多かったのですが、これからは鹿が食べない植物を中心に植えようと考えています。これは新しい発見です。

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2021年4月 6日 (火)

桜の楽園

今年は3月の気温が高く、桜の開花も例年に比べてかなり早かったようです。
年によっては予想外の寒気で桜がなかなか咲かず、桜祭りが変更になるようなこともありました。
Img_4772 もっとも今年はコロナの影響で、桜祭りが中止になったり、お花見の自粛も呼びかけられました。
3月末、我が家周辺はまだ冬枯れの景色で、わずかにクロッカスやスノードロップが可愛い花を咲かせ始めたくらいです。
そんな中、4月1日私は夫と山梨県の南部地域に出かけました。
夫の職場が珍しく三連休で、1日はちょうど中日のため、日帰りで出かけようという気持ちになりました。
南部地域へは、中央自動車道から中部横断道経由で行くことができます。
中部横断道は、長野県の佐久から山梨を通過し静岡県に至る高速道路ですが、周辺住民の反対などもあり、全面開通が大幅に遅れています。
この道路は途中からほとんどがトンネルになり、それ以外の場所も同じような山の景色が続きます。
下部温泉のある早川インターから、南部インターまでがまだ開通しておらず、旧道を走ることになります。
早川インターから降りるとそこは県道で、どの家の庭にも桜、桃、梅、しだれ桜やレンギョウ、ヤマブキなどがあり、急に華やいだ景色を見せてくれました。
高速道路は、時間短縮には好都合ですが、その土地で人々が長い間育んできた暮らしの痕跡を見えないものとし、孤立させてしまいます。
川沿いの道路を進むと、やがて桜並木が始まりました。
広い川の対岸にも同じように桜並木があります。
かなりの老木ですが、見事に花を咲かせていました。
Img_48721 私は桜に限らず花はみな好きで、見事な桜があると見たいと思います。
けれども特にお花見に繰り出したいとは思いませんが、この時の桜は、のどかでありながら豪華な豊かさがあり、春を迎えた喜びが心の中に満ちてきました。
人が桜、桜というけれど、私の住む辺りでは桜は普通に沢山咲くので、贅沢なことではありますが、ありふれた風景の一つのように思っていました。
ところがこの川沿いの桜は、終わりがないように続きました。
もちろん終わりはあったのですが、ずっと幸せな気持ちで桜を眺めました。
いつどなたが植えてくださったかは分かりませんが、「よくぞ植えてくださいました」とお礼を言いたい気持ちでした。
この時の思いは、楽園を垣間見た感動だったのかもしれません。
日本人は桜好きで、春になるとこんなところにも桜があったのかと思うことがあります。
楽園を求める気持ちがそうさせるのでしょうか。

改めて桜の美に開眼しました。

(写真は川沿いの桜ではありません)

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