2022年4月 9日 (土)

モスクワの婦人

 私はロシアがソ連と呼ばれていた時代に、航空会社の客室乗務員としてモスクワに何度か行ったことがあります。それは1970年代で、当時日本で国際線を運航していたのは一社だけでした。
 東西冷戦下でしたから、モスクワ便はありましたが、限られた人数しかビザが発給されません。取得できたのはパイロットと客室乗務員併せて、50人か100人位だったのではないかと思います。ビザの有効期間も半年か1年で、ビザの持ち主はその間何度もモスクワに行くことになりました。
 私はそのころソ連という国は、言論の自由がなく、政府の方針に逆らったらすぐに捉えられる恐ろしい国だと思っていました。実際モスクワの空港に降り立ったら、銃を構えた兵士がいて重々しい雰囲気でした。外国人専用のホテルも外見は重厚で立派なものでしたが、床には絨毯もなく板張りで、素足で歩くと木の縁のささくれが足に刺さりそうでした。いつも監視されているようで、盗聴マイクが設置されているというようなこともいわれました。
 Img_7798 その時代は最近の状況と同じで、ソ連の上空を外国の飛行機が飛ぶことはできませんでした。ですから日本からヨーロッパへ行くには、いったんアラスカのアンカレッジに寄航し給油後ヨーロッパに向かうのでした。そのためずいぶん時間がかかりました。ソ連崩壊後は、ロシアの上空を飛行することが可能となり、ヨーロッパは近くなったのです。
 ソ連時代は、食料や物資が少なく、人々は長い列を作っていました。ドルショップに行けば物は豊富にありましたがとても高価で、一般の人が買えるものではありません。モスクワでは会社が、滞在する乗務員のためにキッチン付きのアパートを借りていて、私たちはそこで食事を作ることもありました。東京から食材を持ってきて、お鍋やすき焼きなど簡単なものです。食事事情が大変貧弱で、ホテルで食事をすると2時間から3時間かかるのが普通でした。考えられない効率の悪さだったのです。
 そんなところでしたから、私はこのような国で生きることができる人は、私とは全く違う人種であると思っていました。20代で人生経験も浅く、ものごとを客観的に広い視野で見ることができなかったのでした。今のロシアは物も豊富にあり、お金さえ出せば誰でも自由に買い物ができるようになったそうです。
 このような私のモスクワでの体験は、以前にもエッセイに書いたことがあります。数日をモスクワで過ごした私は、日本に帰るために会社が用意した大型バスに10数名の仲間と乗っていました。モスクワのシェレメチェボ空港までは1時間くらいかかるので、皆それぞれ窓側に1人で座っています。窓の外の景色を見ていた私の目に、1人の老婦人が大きな袋をもって道路を横断するのが見えました。灰色の地味なコートを着て、頭にも灰色のスカーフを被っていました。その夫人の姿を見ていたとき、私の心に突然天来にひらめきのように「ああ、そうなのだ」と、今まで私の心を覆っていたベールが取り除かれました。
 私はその時までソ連のような特殊な体制で生きている人は、自分とは全く違う人種だと思っていたのでした。ソ連という国とそこで暮らす人とを同一視していたのでした。けれども、ここで生きているのは私と同じ人間で、その人にも当たり前の日常があり、喜びや悲しみを経験しながら普通に生きているのだということが、一瞬にして理解できました。こんな当たり前のことがなぜわからなかったのか、今では不思議な気がしますが、私の人間に対する理解がそれほど未熟なものだったのでしょう。
 我が家にある地球儀は冷戦時代のものなので、ウクライナはソ連の中に含まれています。モスクワの近くにキエフがあります。冷戦後ウクライナは独立国となりましたが、今でもお互いの国に親戚や友人知人が沢山いるそうです。そんな2つの国が戦争しているのです。それもロシアからの一方的な侵略戦争です、ロシアの人には報道規制がかけられて真実が伝えられていません。やがて本当のことが分かるときが来るでしょう。その時ロシアの人は真実を知り憤り苦しむでしょう。真実を伝えないことは大きな罪であり、人権侵害も甚だしいものです。
 Img_7811  私は数日に一回、パン焼き機でパンを焼きます。今日も強力粉に全粒粉と干しブドウ、ヨーグルトを入れてパンを焼きました。パンが焼けると部屋中に良い香りがして、幸せな気持になります。こんな当たり前のなんでもない日常に、大きな喜びがあります。その日常がウクライナの人々から奪われています。ウクライナの人々の支援のために募金などをしようと思っています。
 それと共に、私にできる世界の平和に貢献できることは、自分の接する人を愛することです。親切を尽くすことです。笑顔で挨拶することです。世界の平和を願うと言いながら、夫婦や家族がいがみ合っていては、それは平和ではありません。自分の都合を優先せず、目の前の人に愛を尽くします。
 モスクワ郊外には広大な白樺の原野が広がっていました。ロシアに真の平和が訪れることを願います。ロシアからウクライナへの侵略戦争が1日も早く終わることを祈念します。

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2022年3月11日 (金)

あいたくて ききたくて 旅にでる

 私は最近「あいたくて ききたくて 旅にでる」小野和子著(パンプクエイクス刊)という本を手に入れました。書店の店頭にはなくて、注文して取り寄せてもらったのです。
Img_7273  この本の著者を知ったのは、NHKの「こころの時代」という番組で小野さんがインタビュ―に応えておられるところを偶然見たのがきっかけでした。かなりの年配と思われるその女性は、年齢を感じさせない明晰さでよどみなく話を進めていました。話の内容から、各地に伝承されている民話を訪ねて、仙台を中心に民話の語りを聞くために50年も活動を続けて来られたことがわかりました。。
 民話を語ってくださる方を訪ねて聞くという営みを、民話の「採集」や「採話」と言ったりする場合があるそうですが、小野さんは「採訪」と言っていて、その意味について『「【聞く】ということは、全身で語ってくださる方のもとへ【訪う】こと」という思いが込められています。』と言われます。
 今年八十八歳になられた小野さんは、三十代後半から週末になると夫に三人の子供を預けて、仙台周辺の村々を訪ね歩いたそうです。ノートとテープレコーダーをもって「幼いころに聞いて憶えている昔話があったら、聞かせてくださいませんか」と言って、戸を叩いたそうです。何の収穫もなく手ぶらで帰ることもあったそうですが、思いがけない貴重な出会いもありました。私はそのひたむきな姿を想像して、まるで托鉢に歩く僧侶ようだと思いました。
 この本の中に収録されているのは、昔話もありますが、それよりも物語を語る人の実人生が話されていて、人の暮らしの真実が見え、私には興味深いものでした。
 Img_7417   ヤチヨさんという人が語る「猿の嫁ご」という話は、私が幼い頃母が枕元で語ってくれた昔話で、なじみがありました。
 ある所に父親と三人の娘がいて、父が農作業から帰ってくると娘は飲み物を進めます。けれども父は「湯も茶もいらねえが、山の猿のところに嫁に行ってくれねえか」と娘に頼むのです。長女も次女も父親の申し出にとんでもないことと怒りますが、三女はなぜかすんなりと父の申し入れを受け入れます。
 何故こんなことになったかというと、東北地方は米があまり出来ず、加えて山の上の棚田となると水がなかなかたまりません。父親は「誰か田んぼに水を入れてくれたら、三人いる娘の一人を嫁にやる」と、独り言のように言ったのです。すると猿が来て、田んぼにたっぷり水を入れてくれたので、約束を果たさなくてはならなくなりました。この話の結末は、娘が高いところにある藤の花をとってほしいと猿に頼み、藤の花を取ろうとした猿は枝が折れて川に落ちて死んでしまいます。そして娘はとっとと家に帰るというものです。
 「猿の嫁ご」の話は、誰もが知っている話だそうです。私の祖母は新潟の長岡の人でしたが、祖母から母に伝えられました。この話の背景には、かつての女性が置かれた環境があります。女性は一度嫁に行ったら、婚家の風習に合わせ自由に何かをすることはできませんでした。気に入らない環境でも簡単に実家に帰ることもできません。ところがこの話の三女は、素直に父の願いを聞き入れるのですが、最後は不合理な環境から自分の采配で抜け出すのです。そのたくましい生き方に、女性たちはあこがれを持ったのかもしれません。
 幼い頃、なんとなく面白いと思って聞いていた話が、こんな形で女性の人生に影響を与えていたことを知り、民話の奥深さに新たな視点を持ちました。

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2022年1月 8日 (土)

二年ぶりの伊勢

 私の父は1月6日が誕生日で、今年95歳になりました。
 その父が去年の夏病気になり、一週間ばかり入院しました。
 当時はコロナの感染者が多く、お見舞いに行きたいと思っても行けるような状況ではありませんでした。
 入院も大変で、コロナ禍では誰も面会に行けず、退院したとき父から大きな声で「家が一番いい」と電話がかかって来たほどでした。
 Img_6973 そんなことがあり、昨年の12月ごろは、山梨県でも感染者がほとんどいない日が続いたので、思い切って伊勢に帰りました。
 たとえ一週間でも高齢者の入院は大変で、父は弱っているのではないかと案じていましたが、会ってみると元気で安心しました。
 私には4人の妹がいますが、3人が伊勢にいます。
 私のすぐ下の妹は、父の家の隣に家を建てて、何くれとなく父の世話をしてくれるので、私は安心していられます。 
 他の二人の妹にも助けられています。
 父と話をしていて、知人の話になったのですが、私も父もその人の名前が出てきませんでした。
 ところが翌朝、何々さんだったねと、前夜話していた人の名前を父は思い出して口にしたので、思い出せなかった私は驚きました。
 Img_6980 Img_6974 父は昔の話になると、俄然元気になり、饒舌です。
 それにどの思い出も良い話ばかり、周りの人に助けられた話ばかりで、これが元気の秘訣なのではと思ったことでした。
 毎年お正月には伊勢神宮にお参りに行くのですが、伊勢神宮は混雑が予想されていたので避けて、今回別宮の瀧原宮にお参りしました。
 高校生の頃に一度行ったことがありましたが、記憶はおぼろげになっていました。
 木々に囲まれた自然の中にあるお宮で、森の深さが感じられ、俗化しておらず素朴な中に厳かさもあり、とても良い雰囲気でした。
 伊勢神宮の遷宮の翌年には、瀧原宮も遷宮するそうで、伊勢神宮と同じ作りになっていました。
 コロナ禍の帰省にためらいもありましたが、思い切って行ってよかったと思っています。

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2021年7月 5日 (月)

ハスカップを植えました。

  今から50年近く前、私は航空会社の客室乗務員をしていました。
 国際線の乗務でしたが、私の会社では1年に1回輪番で国内線の乗務がありました。
 期間は1か月か2か月、どちらか記憶が定かではありません。
 当時日本には航空会社が3社あり、国際線を運航しているのは日本航空だけでした。
 全日空と東亜国内航空が国内線を担当していました。
 そのため日本航空は、国内線といっても、東京から札幌、大坂、福岡、それに本土復帰後の沖縄だけでした。
 その国内線の乗務で札幌に行ったときのことです。
 札幌千歳空港は、今ではとても想像できないほど小さな空港で、自衛隊の千歳基地に間借りしているような感じでした。
 千歳は札幌と苫小牧の中間地点にありますが、どちらかといえば苫小牧に近い位置です。
Img_5790  そのため札幌泊まりといえば、ホテルは苫小牧でした。
 乗務が終わると会社が配車したタクシーで、苫小牧のホテルに向かうのですが、ある時タクシーの運転手さんが、ハスカップの話をしてくれました。
 千歳から苫小牧まではまっすぐな道路の両脇は森が続き、あまり交通量も多くありませんでした。
 その森の中には、ハスカップという木の実があり、アイヌの人たちが好んだもので、そのジャムはお菓子などに使われると話してくれました。
 まだブルーベリーなどが市場にはなかった時代、苫小牧の森の中で採れる珍しいハスカップという木の実は神秘的で、私の好奇心を刺激するものでした。
 Img_5791   その後ハスカップのジャムを使ったロールケーキがあることを知り、札幌に行ったときには時々求めていました。
 つい最近のことですが、小淵沢の道の駅で植物を物色していた時、ハスカップの苗を見つけました。
 どうしてこんなところにと思いましたが、ブルーベリー似た色で円錐形の実が付いていました。
 北海道とよく似た気候だから、多分育つのだろうと思い、700円くらいでしたが買って、家の菜園に植えました。
 後で調べてみると、不老長寿の実として今ハスカップは人気なのだそうです。
 カルシウム、鉄、ビタミンC,ビタミンE、ポリフェノールなどが他の食べ物、果物とは比べられないほど多く含んでいるそうです。
 苫小牧周辺にかつてあった自生種はほとんどなく、今では広く栽培されているとのことでした。
 いつの日にか不老長寿の実で、ジャムが作れる日が来ることを夢見ています。

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2021年6月10日 (木)

鹿との共存

 今年で北杜市に移転して8年目になります。
 8年前の9月末にこの地に住まいを移し、ほどなくして翌春のためチューリップや百合、キキョウ、シャクヤクなどを植えました。
 初めての冬は記録的な大雪に見舞われましたが、それでも春は確実に訪れて、秋に植えた球根や花たちは美しい花を咲かせました。
 Img_5584 厳しい冬を経験した後の花爛漫の春は、心躍る喜びでした。
 その年の秋にも、沢山のチューリップや花々を植えました。
 四月初め、秋に植えたチューリップの芽が出てきました。
 冬の寒さに備えて落ち葉をかぶせ、覆いをしていましたが、芽が出てきたのでそれらを取り除きました。
 チューリップの芽が出やすいようにと考えたからです。
 それから2~3日たった時チューリップはどうなったかと見ると、芽がすべて食べられ球根も掘り返され食べられていました。
 声も出ないほどの驚きとショック、本当にガッカリしました。

 2年目で鹿も美味しい花の存在を知ったのだと思います。チューリップが咲き競うさまを楽しみに描いていたのですが、その夢は一瞬にして儚いものとなりました。
 そのあと少したって、シャクヤクが咲きました。
 Img_5587  シャクヤクは前の年より少し大きくなり、こちらは見事でした。
 百合も出てきましたが、つぼみが大きくなったころ花の部分が食べられていました。
 さらに紫のキキョウも、花のつぼみを食べられました。
 どれも鹿の仕業です。
 それ以来、球根や花を植える時には注意深くなり、覆いをしたり棒を立てたり様々な工夫をするようになりました。
 鹿は花のつぼみや葉っぱを食べるのですが、その量は1日に3㎏と言われます。
 今年も春先の気温の急な変化があり、植物たちには厳しい春となりました。
 シャクナゲは4本ありますが、そのうちの1つは沢山のつぼみがほとんど萎れて、花があまり咲きませんでした。
 シャクヤクは今ちょうど季節で今年も見事な花をつけました。
 そんな中ふと、鹿が好きな花と嫌いな花があるのではないかと思い至りました。
 調べてみると、シャクヤク、シャクナゲ、クリスマスローズ、マリーゴールド、ラベンダー、デルフィニュームなどは鹿が食べないので、鹿の食害のある所ではそれらの花だけで花壇を作ることも良いのではないかと書かれていました。
 私はシャクヤクが鹿の害もなく毎年美しく咲くことの理由を考えたことがありませんでしたが、そういうことだったのかと納得しました。
 水仙は鹿が食べないと、地元の人から聞いて知っていました。
 鹿に食べられないようにと心を悩ますことが多かったのですが、これからは鹿が食べない植物を中心に植えようと考えています。これは新しい発見です。

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2021年4月 6日 (火)

桜の楽園

今年は3月の気温が高く、桜の開花も例年に比べてかなり早かったようです。
年によっては予想外の寒気で桜がなかなか咲かず、桜祭りが変更になるようなこともありました。
Img_4772 もっとも今年はコロナの影響で、桜祭りが中止になったり、お花見の自粛も呼びかけられました。
3月末、我が家周辺はまだ冬枯れの景色で、わずかにクロッカスやスノードロップが可愛い花を咲かせ始めたくらいです。
そんな中、4月1日私は夫と山梨県の南部地域に出かけました。
夫の職場が珍しく三連休で、1日はちょうど中日のため、日帰りで出かけようという気持ちになりました。
南部地域へは、中央自動車道から中部横断道経由で行くことができます。
中部横断道は、長野県の佐久から山梨を通過し静岡県に至る高速道路ですが、周辺住民の反対などもあり、全面開通が大幅に遅れています。
この道路は途中からほとんどがトンネルになり、それ以外の場所も同じような山の景色が続きます。
下部温泉のある早川インターから、南部インターまでがまだ開通しておらず、旧道を走ることになります。
早川インターから降りるとそこは県道で、どの家の庭にも桜、桃、梅、しだれ桜やレンギョウ、ヤマブキなどがあり、急に華やいだ景色を見せてくれました。
高速道路は、時間短縮には好都合ですが、その土地で人々が長い間育んできた暮らしの痕跡を見えないものとし、孤立させてしまいます。
川沿いの道路を進むと、やがて桜並木が始まりました。
広い川の対岸にも同じように桜並木があります。
かなりの老木ですが、見事に花を咲かせていました。
Img_48721 私は桜に限らず花はみな好きで、見事な桜があると見たいと思います。
けれども特にお花見に繰り出したいとは思いませんが、この時の桜は、のどかでありながら豪華な豊かさがあり、春を迎えた喜びが心の中に満ちてきました。
人が桜、桜というけれど、私の住む辺りでは桜は普通に沢山咲くので、贅沢なことではありますが、ありふれた風景の一つのように思っていました。
ところがこの川沿いの桜は、終わりがないように続きました。
もちろん終わりはあったのですが、ずっと幸せな気持ちで桜を眺めました。
いつどなたが植えてくださったかは分かりませんが、「よくぞ植えてくださいました」とお礼を言いたい気持ちでした。
この時の思いは、楽園を垣間見た感動だったのかもしれません。
日本人は桜好きで、春になるとこんなところにも桜があったのかと思うことがあります。
楽園を求める気持ちがそうさせるのでしょうか。

改めて桜の美に開眼しました。

(写真は川沿いの桜ではありません)

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2021年2月 6日 (土)

節分のがらがら

Img_4105  「鬼は外、福は内」幼い頃、節分の日の夜には家々からこんな声が聞こえてきました。
 私の育った三重県の伊勢地方では豆まきもしましたが、獅子舞が来て町を練り歩いた記憶が鮮明です。
 追儺の行事である節分に、獅子が舞って悪鬼や災難を払ったのでしょう。
 調べてみると、獅子舞は日本の民俗芸能の中でも、もっとも古い歴史を持ち、古事記には引計王が鹿の角を捧げて舞ったことや万葉集には鹿擬態を示唆する歌などがあり、来歴はきわめて古いそうです。
 私の見た二人立ちの獅子舞は、祭礼のお練りや祈祷、悪魔祓いや豊年祈願のために舞われ、江戸時代には「江戸大神楽師」「伊勢大神楽師」といわれる団体が獅子舞を舞いながら全国をまわり、悪魔祓いをしたことで日本各地に広がったとのこと。
 上京してからは獅子舞を見たことがなかったので伊勢特有の風習かと思っていましたが、発祥の地なので盛んだったのでしょうか。
 我が家でも子どもたちが小さかった頃は、夫が自ら鬼のお面を作って、大騒ぎして節分の豆まきをしたものでした。
Img_4087  三年ほど前のことです。
 一月末甲府に行ったとき、和菓子店に大きな三角のおせんべいが丁寧に包装されて吊り下げてありました。
 「がらがら」と書いてあります。
 お店の人に聞くと、甲府では節分にがらがらを子供たちに縁起物としてあげる風習があるとのこと。
 甘い三角のおせんべいの中は空洞になっていて、おもちゃが入っています。
 男の子用と女の子用があり、吊り下げるリボンの色で区別できるようになっているのです。
 節分の日に贈られたがらがらをこぶしで割ると、おもちゃが出てきます。
 地方色豊かな風習ですが、山梨県民になったことでもあるし甲府の風習を孫たちにも体験させたいと思い、がらがらを買って送りました。
 以来毎年、節分の前に孫たちにがらがらを送っています。
 孫たちは、がらがらを割ることがお楽しみになっているようです。
 今年も甲府の老舗和菓子店でがらがらを買ったのですが、子供用に加え新たに大人の女子用というのがあり、「まあ」と思いました。
 これは誰が送るのかしらと夫と話しました。
 親なのか彼氏なのかと勝手にいろいろ想像し、中に入っているものは何だろうとも思いました。
 大人の男子用というのはありませんでした。
 節分の翌日は立春。
 外は氷点下の気温ですが、それでも日が長くなり春の訪れを待ち望む気持が膨らんできます。

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2021年1月 6日 (水)

餅つきをしました。

Img_3675jpg  山梨県の西部に南アルプス市という市があります。

 サクランボやスモモなど果物の生産が盛んなところです。
 私たちが山梨に引っ越しをしたのは、2013年の秋でした。

 翌年の2月11日12日に、南アルプス市の十日市場地区で十日市というのが開催されることを知りました。
当時山梨のことはほとんど知らなかったので、山梨のことを少しでも知りたいと、夫と私は十日市に出かけました。
調べてみると、「十日市で売っていないものは、猫の卵と馬の角ぐらいだ」と言われるほど、多種多様なものが売られるとのことでした。
中でも臼、杵、鉢などの木製品が名物でした。
 この市は、天正11年(1583年)徳川家康印判状に記述があることから、戦国時代すでにあった歴史のある市だそうです。
沢山の人出の中、臼や杵などがあり、珍しいと思いました。
 

Mochitsuki02jpg  夫は年末になると、餅つきをしたいねと言うことがありました。
昨年の12月末には、夫の誕生日とクリスマスを兼ねて、家族全員が集まることになっていました。
私はその時に、今年は家族で餅つきができないかと思いました。
私の考えを夫に話してみると、「それはいいね」と賛成してくれました。

 臼と杵は、南アルプス市の隣町の富士川町に女性の臼の作り手がいることを知りました。
連絡を取ってみると在庫が4・5個あるとのことで、富士川町の女性の工房を訪ね、中くらいの大きさの臼を求めました。
杵は大人用と子供用をサービスしてくれました。

 誕生祝いをした翌日、前夜から水につけて置いたモチ米を蒸して、いよいよ餅つきです。
もち米の用意から餅つきまで、最初からすべてした経験は家族の誰もありません。
 

Dsc_0109jpg  要領を得ないまま、それでも最初の一升はつきあがり、黄な粉や大根おろし、小豆、納豆、フキ味噌などそれぞれが好みのものをつけて、搗きたてのお餅をとても美味しくいただきました。
そのあとさらにもう一升つきました。
最初のは少し硬めだったので、2回目は水を沢山つけてついたのですが、柔らかくなり過ぎたようでした。
 

 餅は上等の出来ではありませんでしたが、餅つきをしたということは大成功で、みんなとても楽しんだようでした。
 年末行事になるかもしれません。

 

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2020年12月 1日 (火)

サフランを植えました

 パエリャというスペインの米料理があります。
Img_e2366  ご存じの方も多いと思いますが、これは大きなフライパンに米と魚介、野菜などを入れて作る炊き込みご飯です。
 我が家では、パエリャは夫をはじめ子どもたちの好物だったので、時々作りました。
 これには、香辛料のサフランを使います。
 と言っても花を使うのではなく、サフランの赤いしべを着色と風味づけのために入れるのです。
 食料品店の香辛料売り場に行くと、サフランが売られていますが、一つの花から赤いしべは三本しか取れず、それもとても細いものなので、高価です。
 一説によれば、香辛料のサフランは、金よりも高価だと言われることもあります。
Img_2901  私の手元にあるサフランの瓶を見ると、容量は1,3グラムで2千円くらいでした。
 原産地はスペインです。
 そんなこともあり、私は東京にいたころ庭にサフランの球根を植え、しべを採ってパエリャを作ったことがありました。
 北杜市に引っ越してきてからは、サフランの球根を見ることがなく、サフランを植えることなど忘れていました。
 そんな中、今年の7月の終わりごろ、近くの日野春という町のハーブ専門店に行きました。
 ここでいくつか花の苗を買いレジで支払いをしていた時、レジ横の籠の中にサフランの球根を見つけました。
 珍しく思い店の人に「私の家は1200メートルくらいの標高にあり、そんな寒いところでも育てられますか」と聞きました。 
 耐寒性はありますと言われ、10個ばかり球根を買いました。
 店の人も冬の管理を少し不安に思ったらしく、詳しく調べてくれ、「マイナス10度くらいまでは大丈夫ですが、念のため真冬は堀り上げた方がいいですね」と助言してくれました。
 8月初めに球根を植え、11月初旬から徐々にしべが収穫できました。
 サフランは一つの球根から花が4個から5個咲きます。
 Img_2907 11月末には掘り上げてプランターに入れ、サンルームに置きました。
 乾燥させたしべは写真にあるもので、ほんの少しですが、地産地消のサフランを使ってパエリャを作るのを、楽しみにしています。
 サフランの球根は、10個で600円でしたが、球根が増えて毎年紫のきれいな花と共にしべが採れるというのは、ワクワクする楽しみではないかと思います。

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2020年10月28日 (水)

谷口清超先生12年祭

 Img_1993 今日は谷口清超先生の12年祭が、山梨県北杜市の生長の家国際本部、森の中のオフィスのイベントホールで執り行われました。
 例年なら、本部職員をはじめ関係者が参加しますが、今年は新型コロナウイルスの感染防止のために、神官のみでの年祭となりました。
 その代わり、年祭の模様はライブ配信され、私も夫と共に夫の執務室で年祭に参加しました。
  今朝目覚めたとき、「今日は清超先生の年祭の日だ」と思いましたが、夫がかつて先生に私との結婚の意思を伝えたときの先生からの返信の手紙を思い出しました。
 清超先生は、「大変結構で私も喜んでいます」と書いてくださり、さらにほほえましいエピソードまで知らせてくださいました。
  結婚前の私は航空会社の客室乗務員をしていましたが、当時NHKの「ほんとにほんと」というクイズ番組に、ゲストで出演したことがありました。
 清超先生は講習会の旅先で、お風呂に入っておられたときに、テレビから私の名前が聞こえてきたので、慌てて出てきたら、テレビの画面にはそれらしき人が映っていたというようなことでした。
 このような内容を夫は手紙で私に知らせてくれました。
Img_e1585   結婚前のことですから、彼の両親が私をどのように思ってくださっているかということは、興味のあることでしたし、不安もありました。
 そんな中、このような好意的な行動をしてくださったことで、私はずいぶん気持ちが楽になりました。
  手紙が意思疎通の重要な役割を果たしていた時代のことです。
 つい昨日のことのように思いますが、もう40年近くも前です。
Img_1941  以来、清超先生は常に暖かい眼差しで見守ってくださり、私は先生からお小言を言われるということは一度もありませんでした。
 振り返れば、未熟で、足りないところ、先生の意にそわないところもあったのではないかと思いますが、大きな心で受け止めてくださったのでしょう。。
 先生の療養中に「日時計日記」が新しく出版されましたが、そのことも「それはいいね」とほめてくださいました。
 思い出は尽きず、限りない感謝の思いが胸に広がります。

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